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部民制(べみんせい)とは、ヤマト王権の制度であり、王権への従属・奉仕の体制、朝廷の仕事分掌の体制をいう。トモ制(ともせい)とも称する。
その種類は極めて多く、大きく2つのグループに分けることが出来る。1つは何らかの仕事にかかわる一団で、もう1つは王宮や豪族に所属する一団である。前者には語部・馬飼部、後者には蘇我氏・大伴氏などがあげられる。語部は、伴造(とものみやつこ)である語造(かたりべのみやつこ)氏に率いられ、朝廷の儀式の場で詞章(かたりごと)を奏することをその職掌とした。蘇我氏や大伴氏が蘇我部や大伴部を所有しえたのも、彼らが王権を支える臣・連として、朝廷組織のなかにその位置を占めていたからである。
律令制の実施に伴って廃止されていく。律令制の実施後の部称は、たんに父系の血縁を表示するだけの称号であるにすぎず、所属する集団との関係を示すものではない。
670年(天智9)の庚午年籍(こうごのねんじゃく)以後、すべての人民が戸籍に登録されるようになると、部称は個人の姓として残され、以後は代々父系によって継承されることになったのである。
部民制の成立
5世紀頃には、畿内の及びその周辺の中小豪族をトノモリ(殿守)・モヒトリ(水取)・カニモリ(掃守)・カドモリ(門守)など、宮廷の各種の職務を世襲的に分掌する「トモ」として、大王のもとに組織する体制が成立していた。そのようなトモ制の拡大・発展の結果、5世紀後半には、さらにトモノミヤツコ(伴造)がトモ(伴)を率いるという体制も整備された。
ヤマト政権は朝鮮半島情勢の緊迫化に伴って、磐井の乱後に、屯倉制や部民制を列島中に拡げていった。とくに乱後の九州では、軍事的部民が設置された。ヤマト政権は、肥後地方に日下部・壬生部・建部・久米部などに軍事的部民を設置した。物部関係では、筑紫・豊・火に及ぶが特に筑紫に多い。大伴関係では、筑紫・豊・火に分布するものの密度は低い。
氏姓制度(うじかばねせいど)
ヤマト政権の豪族層は、ウジと呼ばれる組織を形成していた。蘇我氏・紀氏・大伴氏・物部氏・秦氏・漢氏・忌部氏・史氏等をはじめ大小幾多のウジがあった。
古代のウジは、血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団で、有力家族の長が氏上(うじのかみ、うじがみ)となり、族長的な地位に立っていた。その直系・傍系の血縁者や非血縁者の家族を氏人(うじびと)といい、これに隷属し統率されていた。
ウジは、ヤマト政権の政治組織という性格をもっていた。ウジはたんに自然発生的に形成された血縁的集団ではなく、大王に臣従を誓い、奉仕することを義務づけられた血縁的集団である。中央・地方のウジは、大王との間に隷属・奉仕の関係を結び、それを前提にして氏上は朝廷における一定の政治的地位や官職・職務に就く資格と、それを世襲する権利を与えられた。また、その出自(しゅつじ)や政治的地位・官職の高下・職務内容の違いに応じて、カバネを賜与され、部民(べみん)などの隷属民を領有することを認められたのである。
一般に氏姓(うじかばね)制といわれる。
カバネには臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)などがある。
ウジの組織は、5世紀末以降、史料から確認できる。広範に整備されるのは6世紀のことである。
臣(おみ)と連(むらじ)は、基本的な違いが存在していた。それは、臣と称する豪族は、蘇我氏・吉備氏など、一般に地名をウジの名とし、それぞれの地域を基盤とする首長であったのに対して、連と称した豪族は、大伴氏・物部氏など、トモとしての職掌を名にもつ伴造のウジとしたのである。つまり、臣は王権に対して相対的な独自性を有するが、連は大王への臣従をその本質としたのである。
伴造氏族の成立は、雄略朝において認められる。稲荷山鉄剣にみえるヲワケは、杖刀人集団(トモ)を率いる伴造であった。
品部、部曲・民部、子代・名代・御名代
今日の一般的な理解は次のようになっている。
- 品部(しなべ)
- 海部(あまべ)、飼部(かいべ(犬・鳥・馬など))などのように具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。
- 子代(こしろ)・御名代(みなしろ)
- 刑部(おさかべ)・額田部(ぬかたべ)など、王(宮)名のついた部のことで、伴造に統括される一種の品部であるが、特に王家・王族の所有である点が特徴である。品部は、舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する
- 部曲(かきべ)
- 諸豪族の所有民で、蘇我部・大伴部など、豪族の名を帯びる部である。
関連項目
- 部曲
参考文献
- 鎌田元一「部についての基本的考察」『日本政治社会史研究 上』塙書房、1984年。