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日本の気動車史(にほんのきどうしゃし)では、日本における気動車発達過程の概略を記述する。


戦前期


蒸気動車


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その歴史の初期には、蒸気機関を装備した「蒸気動車」が存在し、日本でも1900年代から第二次世界大戦中まで若干が用いられていた。床上の一端に小型ボイラーを装備、この側の台車にシリンダーを取り付けて駆動するものである。
日本で明確に導入された最初の例はフランス製の「セルポレー式自動客車」である。早くも1899年に日本に持ちこまれて、同年7月以降東京馬車鉄道での構内試運転が行われた記録がある。これを導入しようと目論んだ事例も幾つかあったがほとんどが頓挫した。
セルポレー式蒸気動車を実用導入した最初にして唯一の例は、1905年の瀬戸自動鉄道(のち瀬戸電気鉄道、現名古屋鉄道瀬戸線)であった。この小型車は4輪車で、セルポレーの特許による高性能なフラッシュボイラーを搭載していたが、当時の日本の技術では構造複雑で使いこなせなず、整備困難で、故障も多発した。本来市内の軌道線向けの車両であり、郊外路線で勾配の多い瀬戸線の路線条件にも合わなかった。発車前に給炭しておけば終点まで燃料補給不要とされたが、実際に運用すると途中で燃料切れにより立ち往生することもあった。このように実用上問題が多かった蒸気動車はほどなく放擲され、同線は1907年には電化された。瀬戸電気鉄道での蒸気動車運用記録は1911年が最後である。
続いて1907年にはハンガリーのガンツ社の設計になる大型のガンツ式蒸気動車が関西鉄道に2両導入され、鉄道国有化に伴ってこれを買収した国鉄で使われたほか、1909年までに近江鉄道(2両)、河南鉄道(現・近畿日本鉄道道明寺線長野線など、1両)、博多湾鉄道(現・九州旅客鉄道香椎線、2両)に導入された。これらは機関と駆動装置部分のみを輸入し、車体は日本国内で製造された。
ガンツ式は18気圧という高圧の水管式ボイラーを縦型に配置し、ロッドや弁装置を持たず、単式・複式切り替え構造を併設した歯車式の駆動装置によって駆動するなど、複雑精緻な構造を備えていた。このため本来は高性能であったが、当時の日本の技術水準では整備に難渋して使いこなせず、普及することなく終わった。
一方、比較的普及したのは工藤式蒸気動車であった。汽車製造の設計掛長であった工藤兵次郎が1909年に開発し、翌年特許取得したもので、小型のB型蒸気機関車のボイラと台枠の間にボルスタを設け、ここに車体側台枠と連結される側梁を載せることで曲線通過時に車体に対して機関車部分がボギー式台車のように首を振る構造であった。
この着想やレイアウトのほとんどは、実際にはイギリスのロンドン&ノース・イースタン鉄道が1905年に開発した蒸気動車からの剽窃であった。機関車部は整備時にはボルスタピンを抜き、車体と切り離し前面の開き戸から引き抜くことが可能で、蒸気動車の末期にはこの機関車部だけを抜き出して独立した蒸気機関車に改造する例も見られた。
工藤式蒸気動車は、ガンツ式ほど性能は高くなく、ボイラー圧力も当時の一般的な蒸気機関車並の11気圧程度であったが、信頼性と扱いやすさの面で当時の日本の技術水準に適していた。
工藤式蒸気動車の最初の導入例は奈良県の初瀬軌道で、この蒸気動車は同線の廃線後、北海道の余市臨港軌道からさらに小湊鐵道に譲渡、客車化されながら1952年まで残存していた。
工藤式は、鉄道院には1912年から1914年にかけて18両が導入され、その他にも外地の鉄道を含めて1920年頃までに少なからぬ導入例がある。既にガンツ式導入経験のあった河南鉄道のほか、三河鉄道(現・名鉄三河線)、湖南鉄道(現・近江鉄道八日市線)、播州鉄道(現・西日本旅客鉄道加古川線)などが少数導入し、また台湾総督府鉄道も5両を導入している。製造の多くは汽車製造によるが、工藤兵次郎の汽車製造からの退社により、汽車製造以外に川崎造船所(現・川崎重工業)や枝光鐵工所など、大手・中小での製造例も少数生じた。なお、鉄道院に導入されたうちの1両が現在博物館明治村に静態保存されている。
これらは蒸気機関車同様に石炭を燃料とし、機関助手の乗務を要した。ガンツ式や工藤式については両側運転台で、機関室と逆側の方向へ走行する場合、先頭側運転台の機関士はワイヤーと伝声管を介して後部機関室の助士に指示を与え、走行していた。
このように取り扱いに手間がかかることから、より運用が簡便で高効率な内燃機関を動力とする内燃動車が出現したことに伴って、大正時代末期以後に蒸気動車は廃れ、大半は機関部を撤去して客車化されていった。
しかし、国鉄・私鉄の保有した工藤式蒸気動車の一部は、1930年代後期以降の戦時体制による燃料統制期に至っても自走可能な状態で温存されていた。その結果、内燃動車が1930年代末期以降に石油燃料・補修部品の入手困難から事実上使用不能に追い込まれると、残存した蒸気動車はこれに代わって各社でフル稼働し、終戦直後の窮乏期にかけて、老朽車としては異例の走行キロ数を記録した。原始的な機構と、燃料が蒸気機関車同様の石炭であることとが幸いし、物資不足の戦時下でも維持・運行することができたのである。鉄道省から一部地方私鉄に貸し出された車両については、老朽車であったにもかかわらず、貸出先各社から払い下げを再三に渡って懇願されるほどの高評価を得たという。ただし、この動きはあくまで旧型車の活用にとどまり、この時期に敢えて蒸気動車が新造されるまでには至らなかった。
なお、「気動車」の語源はこの「蒸気動車」の省略形である。そこから転じて、熱機関動力の自走客車全般の呼称となった。ただし前述の関西鉄道の場合は動車と略していたとされる。

ガソリンカーの出現


1910年頃から、欧米では軽量・高出力なガソリンエンジン動力の「ガソリンカー」(ガソリン動車)が広く用いられ、日本にも1920年代以降普及した。
その最初は矢沼商店が1919年に製作した自動車改造車であったが、この車両は公開試運転(1919年7月28日、京浜電気鉄道の蒲田~穴守間を借用して10.5往復運転)を行なったにとどまった。
営業運転第1号車となったのは矢沼商店から独立した自動鉄道工業所が製造し1921年福島県の好間(よしま)軌道に納入した超小型ガソリンカーである。この車両は1920年10月に完成、1921年4月4日に営業運転を開始した4 mほどの木造車体で、定員は12人。運転台が片一方のみで運転台方向に前進走行する「単端式」で、終点では蒸気機関車と同様、転車台等で方向転換をしていた。好間軌道納入前に静岡県の根方軌道で試運転を行なっている。
地上設備を余り要さず初期投資費用も安いガソリンカーは、輸送量の少ない閑散路線には総合コストで有利であることから、新たに開業した非電化軌道から採用が始まったが、他の動力を使用する非電化軌道にも導入例が見られるようになった。1925年には地方鉄道初の事例として栃尾鉄道が日本鉄道事業製のガソリンカーを導入している。ただし、この時期はまだガソリンカーの導入例は762 mm・610 mm軌間の軽便鉄軌道に限られていた。1,067 mm軌間のガソリンカー採用例はガソリンカーが普及期にはいった1927年、南越鉄道ガ1が最初である。
製造メーカーとしては、好間軌道・夷隅軌道などの車両を手がけた最初の内燃動車メーカーである自動鉄道工業所→日本鉄道自動車→日本鉄道事業がこの時期の気動車のほとんどを製造している。
1926年になると丸山車輌がガソリンカー製造に参入。同社製品の登場を機にガソリンカーを導入する地方鉄・軌道が急増した。
ガソリンカーの需要増加の背景は、この時代日本各地に零細事業者による車両保有台数1、2台程度のバス会社が乱立し、中小私鉄と激しい競争が展開され始めていたことがあげられる。各私鉄は対抗上、列車を増発する必要に迫られ、頻繁運転することに向いたガソリンカーの採用に踏み切った。自動車の増加を背景に日本のガソリン価格が低下し、1930年代初頭にはアメリカと大差ない水準にまで下落したことも、ガソリンカー普及を後押しした。

ガソリンカーの一般化


不況期のガソリンカー需要の増加による市場拡大を背景に、1927年の日本車輌製造を皮切りとして大手・中堅・零細車両メーカー各社が、次々とガソリンカー製造に参入するようになる。
しかし、メカニズムやデザインに定見のある時代ではなかっただけに大手製品ですら初期には試行錯誤の連続であり、加えて鉄道車両を製作したことのないメーカーの参入も見られたため、奇妙な設計による失敗作も多かった。
その一方で、新技術の導入も見られ、1927年から1928年にかけて、両側運転台車、ボギー車、半鋼製車体などが実用化されている。最初の両運転台式気動車は、1927年6月梅鉢鉄工場製の南越鉄道ガ1で、これは日本における1,067 mm軌間地方鉄道向けガソリン動車の第1号でもあった。ボギー式ガソリンカーは1928年7月松井車輌製の鞆鉄道キハ3、半鋼製車体は1927年2月日本車輌製造製の井笠鉄道ジ1・2がそれぞれ最初と見られる。
エンジンの搭載位置も当初の車輛端から振動軽減のため床下両軸/両台車間搭載が主流となり、搭載方法も両方の車軸で支える方法から、より振動の少ない釣り掛け式や吊り下げ式へと進歩している。このような技術改良はメーカー側の創意工夫によるところが多く、しかも梅鉢鉄工場や松井車輌といった中小メーカーが先鞭をつける例も少なくなかった。
日本車輌(本店)は、単端式気動車の拡販に成功して一気にシェアを拡大したが、これに対し他の後発メーカーは両運転台式でより大型の車両に開発の重点をおいていた。結果、日本車輛は両運転台式気動車の開発で他社に出遅れ、他メーカーが実用的な両運転台車を生産する中で試行錯誤をすることになる。
しかし日車本店は、1920年代末にはこの状態を脱して実用的な両運転台式ガソリンカーの開発に成功した。輸入大型エンジンで出力を確保するとともに、ボギー式気動車の動力伝達レイアウトについて一つの完成形を確立したことによる。
その基本レイアウトは、機関とクラッチ・変速機のセットを車体吊り下げの機関台枠にまとめてマウントし、逆転機は変速機から別体として台車に搭載、ユニバーサルジョイント付のプロペラシャフトで結んで駆動するというものである。類似構造は他社にも見られたが、日車式の最大の特徴は逆転機の搭載方法にあった。最終減速用ギアボックスと一体構造のベベルギアによる逆転機を台車のトランサム(横梁)に2本の平行リンクで結合することで、推進軸の回転トルクによる逆転機本体の転動を抑止したのである。
日本車輌方式の逆転機搭載(保持)法は、構造的に無理が少なく、信頼性も高かったことから、以後の日本のボギー式気動車において、事実上の標準となった。鉄道省もキハ36900形以降この方式に追従し、戦後キハ90系で1台車2軸駆動を実現するために変速機に逆転機を内装するようになるまで、機械式・液体式の時代を通じて長く標準採用し、この方式は現在も日本の気動車の多くで使用され続けている。日車はこの搭載法の特許を取っており、競合メーカー各社は特許回避のため独自の方式を工夫したが日車特許の搭載法には及ばなかった。
さらに軽量車体や軽量な菱枠式台車(鋼板を切断して製作した細い部材を組み立てて構成されるペデスタル支持式軸バネ台車。最小限の部材で構成されており軽量となる)などの開発も進めた。特に菱枠式台車は、日本車輌製造での原型は大正時代中期に簸上鉄道向け客車に装備された「野上式弾機装置三号型台車」にまで遡るが、気動車用として成功した1930年以降、1950年代まで日本の気動車用台車の主流となった。この結果、日本車輌製造は、1930年頃から比較的大型で安定した性能の気動車を生産することが可能となり、以後戦前を通じて日本の気動車業界をリードし続けた。1931年には江若鉄道向けとして中型電車に匹敵する18 m級120人乗りガソリンカー・C4形を開発している。
そのため1930年代以降、技術力や営業力に劣る中堅・零細メーカーは次々と撤退・淘汰され、日本車輛を筆頭とする大手メーカーを中心に実用性を持った気動車が製造されるようになった。戦前の日本における私鉄気動車の両数は、1935年頃には全国で400両を超え、湯口徹によるとのべ653輌(客車等からの改造車、未認可車を含み、移籍による重複は除く)に達したとされる。その大半はウォーケシャやブダなどの大型自動車・定置動力用、あるいは量産自動車のフォードなど、アメリカを中心とする海外メーカー製のガソリンエンジンを搭載していた。

鉄道省のガソリンカー


国鉄におけるガソリンカーの最初は1929年のキハニ5000形であるが、これは重量超過の失敗作であった。続いて1931年に20 m級の大形電気式ガソリンカー、キハニ36450形を試作したが、これも重量過大と低出力から失敗に終わった。
本格的に実用化されたのは、私鉄向け気動車設計で経験豊富な日本車輌などが開発に参画し、その設計ノウハウがもたらされた1932年開発の16 m級車・キハ36900形(後の41000形)からである。この41000形と、その設計を元にストレッチした1935年製造開始の19 m級車であるキハ42000形(のちのキハ07形)は、合計200両以上も製造され、日本各地に導入されて好成績を収めた。そのため、太平洋戦争後の1951年から1952年にかけ同型車が追加製造されているほか、私鉄向けにも何例かのデッドコピー車ないし類似車が存在した。
戦前の日本では、私鉄気動車では20~105PS級の輸入エンジンが主流であったが、国鉄ではあくまでも国産品を用いる姿勢を貫いた。そのため、日本で鉄道車両用エンジンの製造技術が未熟であった頃に製造されたキハニ5000形では船舶用のエンジンが改設計の上で用いられた。1930年代に入ると国鉄気動車は鉄道省が設計したGMF13 (100 PS)・GMH17 (150 PS) の2種の国産制式ガソリンエンジンを用いるようになった。

ディーゼルカー


ディーゼルエンジンは、1894年の開発以来、1910年代まで大型船舶用などの低速大型機関しか存在しなかったが、その後、第一次世界大戦中から戦後期の技術改良により、鉄道車両に搭載しうる中型~小型の、中速・高速ディーゼルエンジンが実用化された。ガソリンエンジンよりも経済性や安全性で有利なことから、1920年代以降ドイツなどを中心に機関車や気動車用に普及した。
日本では1928年雨宮製作所がドイツのMAN製舶用エンジンを搭載して製造した長岡鉄道キロ1形が最初の「ディーゼルカー」とされる。しかし、当時の地方鉄道の技術力ではディーゼルエンジンを整備・維持しきれず、しかも駆動システムも機関出力を一旦変速機で変速した後、前後のボギー式台車の内側軸にユニバーサルジョイントで動力を分配伝達する複雑な2軸駆動システムであったことから、運用に難渋し、ほどなく一般的な構造のガソリンカーに改造されてしまっている。
当時、ガソリンエンジンは既に自動車用として普及しており、気動車にも自動車用のエンジンを流用した例が多かったこともあって、地方私鉄の検修現場における技術水準でも維持できた。しかし、ディーゼルエンジンは燃料噴射系統を中心に高度な精密機構を有し、維持管理にはガソリンエンジンよりも高い技術力を要求された。
また気動車に使用されるディーゼルエンジン自体も、1930年代前半にはMAN、ダイムラー・ベンツユンカース(以上ドイツ製)、サウラー(スイス製)など少量輸入品ばかりで、エンジンも部品も高価なものであった。
長岡鉄道以後も、江若鉄道などカタログデータのみによる燃料費用節減効果に惹かれてディーゼルカー導入を試みた私鉄はいくつかあったが、その多くが燃料噴射ポンプの噴射量調整困難をはじめとする取り扱いの難しさや、少量輸入に頼らざるを得ない補修用部品の供給問題などに阻まれ、試作車を1~2両導入しただけで挫折している。
それでも相模鉄道(初代)神中鉄道加越鉄道北九州鉄道などはディーゼルカーを一般営業運転で安定して使用するようになっていた。特に神中鉄道が1936年から1940年にかけて、国産ディーゼルエンジン(池貝鉄工所日立製作所製)搭載のディーゼルカーを11両も導入し、実用水準に到達していたことは特筆される。
また日本の資本・技術で運営されていた南満州鉄道は、日本車輌製造に発注して電気式のディーゼル列車「ジテ1形」を1934年に新製し、一般旅客列車に投入して運用実績を収めている。同社はさらに1937年1938年にかけ、ドイツやイギリスの技術を導入して流体継手やトルクコンバータを変速機に用い、ドイツの大型気動車並みにエンジンを台車装架としたディーゼルカーを日本車輌で試作、試験したが、こちらは当時の時点では普及までには至っていない。
国鉄も1935年~1937年にかけてディーゼルカー(キハ42500形)を試作したが、実用水準には至らなかった。しかしその過程で、1935年には新潟鐵工所、池貝製作所、三菱重工の3社に150PS級ディーゼルエンジンを競作させており、それらの試験結果を基にして1942年には気動車用150 PS級標準型ディーゼルエンジンの基本設計を完了している。戦後このエンジンは「DMH17」の呼称を与えられて制式化され、シリンダ数を8気筒から6気筒にスケールダウンした姉妹機種のDMF13と共に、国鉄の気動車用制式エンジンとして地方鉄道を含め日本全国に広く普及した。
だが1930年代後半以降、社会全体が戦時体制へと突入したことで、実用車としてのディーゼルカーの発展はここで10年以上の長い停滞の時代を迎えることになる。

気動車の新製禁止


1937年以降、日本が戦時体制に入ると、気動車の運行に必要なガソリンや軽油、重油、潤滑油等が使用制限されるようになり、配給ガソリンにはアルコール(メチルアルコール)が強制的に混入された。また1938年から内燃動車の新規製造は原則禁止となり、中古気動車の譲渡価格が極度に高騰した。
沿線に駐屯地や鉱山などがある一部私鉄や、外地(台湾樺太、満州)路線向けに例外的に気動車新製が行われたが、それも1941年を最後に途絶した。

戦中・戦後燃料統制期


戦時中の気動車運行


1941年に燃料油の民間配給が途絶えて以降、日本国内の気動車の運行は蒸気動車と代用燃料を使用したガソリンカーに限定されることとなった。
燃料不足により内燃動車の稼動は大幅に低下し、休車となったり、客車代用、あるいはエンジンを取り外して客車として使用される車両も多かった。国鉄では1945年5月(3月とする文献もある)において内燃動車の運転を取りやめている。ディーゼルカーについては戦時中には代用燃料を使用する手段が実用化されず、ディーゼルエンジン車両は休止を余儀なくされた。

代用燃料(代燃)車


代用燃料(代燃)車 とは、本来想定される正規の石油系燃料の代替として、それ以外の燃料(代用燃料)を用いて走行する車両のことである。
戦時体制に入りガソリン等の燃料油が入手できなくなると、内燃機関で走行する鉄道車両や自動車は代用燃料の使用が必須となった。代用燃料では一般に「木炭ガス」といわれる、木炭などの固形燃料をガス発生炉(代燃炉)で不完全燃焼させて発生させた可燃性ガスが知られているが、天然ガスアセチレンガスもあった。このうち内燃動車には、ガス発生炉によるものと天然ガスが使用された。
ガス発生炉搭載車

ガス発生炉搭載車は、車両に搭載したガス発生炉(代燃炉)で木炭等を不完全燃焼させ、発生した一酸化炭素を主成分とするガスを燃料にガソリンエンジンを回して走行する。
ガス発生炉は、気動車分野でも早くから採用が試みられていた。日本の気動車で初めて木炭ガス発生炉を装備したのは1934年の流山鉄道(現在の総武流山電鉄)キハ32(1934年汽車製造会社東京支店製の半鋼製2軸車)であるが、ガス発生炉がまともに実用にならず失敗に終わっている。代燃車が気動車の分野において普及したのは、石油供給事情の悪化がきわめて深刻となった1940年頃からで、政府からの奨励や燃料統制もあり、多くのガソリンカーが車端部等にガス発生装置を後付けした。
これらのガス発生炉利用のガソリンカーは、カロリー不足で本来のガソリン使用時よりも大幅な出力低下を余儀なくされ、ガソリンであれば登り切れる勾配も、代用燃料では出力不足で立ち往生するような事態が生じた。またガスに混じったタールなどの不純物を除去しきれないため、エンジンを損傷しやすかった。薪炭ガス燃料ではエンジンの始動性も非常に悪く、始動だけは配給ガソリンを使うケースや、他の気動車による「押しがけ、牽きがけ」で始動させるケースが多く見られた。
代燃炉の設置場所は私鉄では荷台を利用するなどして車体妻面外部に設置した例が多いが、省(国鉄)や一部の私鉄は車内床上に搭載し、客室とは仕切り板で区切って、代燃炉スペースを確保した。また希少例として五戸鉄道では床下に設置した。
ガス発生源となる燃料は木炭など木質燃料のほか、中国産無煙炭や、コーライト(半成コークス)などが用いられている。国鉄では蒸気機関車のボイラーから回収されるシンダ(石炭の燃えかす)を気動車のガス発生燃料に用いる試みも行われ、100両前後のガソリンカーが改造されたとの記録が残っている。が、いずれも燃料となるガスの主成分が有毒な一酸化炭素で、保守担当者が車庫での整備中に漏洩ガスが原因で中毒死する事故が起こるなど、燃焼効率や出力以外の部分にも問題が多かった。
ガスカー(天然ガス動車)

他に代用燃料による気動車として天然ガスを燃料に用いた「ガスカー」がある。
これは千葉県新潟県山形県秋田県など天然ガス資源に恵まれた地域で、1940年前後からガソリンカーを改造して出現したもので、ガスボンベ多数を床下搭載して改造ガソリンエンジンを駆動した。ガソリンカーに比べて20%程度の出力低下に留まり、エンジンへの悪影響もなく、走行性能では他の代燃車よりは優れていたが、ガス代が極めて高価であること、ガス充填に時間と手間が掛かること、そして爆発の危険性など特有の問題も多かった。このため、ガス産地至近の一部国鉄路線と私鉄5社で用いられたのみで、他の地域にまで一般化はしなかった。これらの地域では後年までディーゼルカーのことをガスカーと呼ぶ者もあった。
1950年6月に、ガスカーを使用していた小湊鐵道において、ディーゼルエンジンに天然ガス混合の空気を吸気させ、圧縮行程で少量の軽油を噴射することで着火させるという、天然ガス使用ディーゼルエンジンの実車試験が行われた。燃費面では、ガソリンエンジン形の火花点火式よりも大幅な改善を実現したものの、同年中に軽油の供給量に問題がなくなると本来のディーゼルエンジンとして用いた方が遙かに経済的な状況となり、本格実用化に至らないままに終わった。

終戦後の気動車


終戦後もしばらくは燃料油の入手難は続き気動車の運行は戦時中と同様、蒸気動車と代燃車により細々と続けられていた。
ガス発生炉は非常に使い勝手の悪い代物で、搭載した気動車自体と、それを取り扱う運転士や保守担当者双方に著しい負担を強いた。このため、戦後の一時期には外見こそガス発生炉搭載の代燃車ながら、実際は統制外(ヤミ物資)ルートで密かに仕入れたガソリンでほとんど走行していたケースもあった。例えば国鉄は戦後の1946年3月、常磐線松戸取手間にガソリンカーの運行を再開したが、その燃料は旧日本軍の本土決戦用備蓄ガソリンを入手して賄っていたという。そればかりか、沿線に米軍のキャンプや演習場が設営された江若鉄道のように、進駐軍の威光により代燃装置無しで堂々と特配のガソリンを使用していた例さえあった。
ただし、このような事例は少数に止まったようで、国鉄では1948年から既存のガソリンカーを、天然ガスを燃料とするガスカーに改造して一部線区で運行を始めている(キハ41200・キハ42200)。
また多くの非電化私鉄は燃料油の入手難に加え、戦後は石炭価格の高騰で蒸気機関車運用にも難渋した。この苦境を乗り切るため、1944年から1951年頃にかけて電化による電気動力転換を選択した例が少なからず存在する。石油・石炭燃料の高騰に比べれば、電力の供給事情はまだしも良好であったからである。
燃料油の入手難は統制外燃料の流通もあり次第に緩和の方向に向かっていたが、1950年には非電化私鉄への燃料油の配給が再開されたことにより、正規のルートでも燃料油の入手が可能になった。
また車輛の新製もこの頃から再開され、1950年から1951年にかけて各地の私鉄では、木炭ガスや天然ガスをディーゼルエンジンの吸気に混合するタイプの代燃気動車が新製されたことになっている。だがこれらは、監督省庁が代燃車しか新製を認めないという制約をくぐり抜けディーゼルカーを新製するための方便に過ぎず、これらの車両は代燃炉を装着していても最初からヤミルートなどで入手した軽油で運行されていたのが実情であった。国鉄においても1951年から新製車の製造を再開した(キハ41600~、翌年にはキハ42600~)が、こちらは当初より正規のディーゼルカーとして竣工している。
各種の代用燃料気動車は、最終的には燃料事情が改善すると、多くがエンジンをディーゼルエンジンに載せ替えて、ディーゼルカーに再改造された。蒸気動車については国鉄では1947年を最後に運転を取りやめ、私鉄における使用もほぼ同時期までで終了している。


戦後発展期


ディーゼルカーの一般化


日本で気動車エンジンがディーゼル機関に本格移行したきっかけは、1940年に発生した、西成線(後の桜島線安治川口駅でのガソリンカー横転火災事故とされる。189人もの死者を出したこの大惨事によって、発火しやすいガソリンを燃料に用いる危険性がクローズアップされた(西成線列車脱線火災事故も参照)。
日本では、第二次世界大戦直前から陸軍主導で戦車や自動車など軍用車両向けとして、規格設計による「統制型ディーゼル機関」と呼ばれる標準エンジンの開発が進められ、国内の自動車メーカー・エンジンメーカー各社において量産実績を重ねていた。水冷式・空冷式のいずれも存在したが、戦後鉄道用に用いられたのは原則として水冷式のみである。
また国鉄も戦時中まで気動車用ディーゼルエンジンの開発に取り組んでいたことで、ディーゼルエンジン技術の蓄積がなされていた。その結果、安全性と燃費に優れたディーゼルカーが、戦後に普及することになる。
この時期に日本のディーゼルエンジン開発が大きく進展した一因として、ディーゼル機関の性能を左右する燃料噴射ポンプの分野で当時世界最優秀だった、ドイツのロバート・ボッシュ社の方式による噴射ポンプが、1939年設立の「ヂーゼル機器」(のち社名変更を経て現・ボッシュ株式会社)でライセンス取得により国産化されていたことが挙げられる。ボッシュ式燃料噴射ポンプは、統制ディーゼル機関やDMH17系機関でも採用された。
既存ガソリンカーのエンジンを交換してディーゼルカー化する流れは、江若鉄道において1947年に、トレーラーバス用転用の統制ディーゼル機関を在来保有車に搭載したのが嚆矢である。江若鉄道の場合、前述の通り連合軍キャンプが沿線にあったため、燃料の特配が受けられたことで早期のディーゼル化が実現したが、この流れが他事業者にも本格的に普及し始めるのは燃料供給事情が好転した1950年以降である。この頃になると、統制型エンジンの流れを汲むいすゞ・日野の75~100 PS級6気筒を中心としたディーゼルエンジンが大型トラック・バスに普及し、部品供給面の改善(自動車業界の部品流通網が利用できた)や使用側の整備能力向上などインフラが整ってきたこと、また、このクラスのエンジンは私鉄に広く普及した12~16 m級中型気動車に適した性能であったことなどが背景にある。
ガソリンカーのディーゼル化は、1950年代に入ると国鉄を筆頭として全国的なトレンドとなり、1950年代末期までに零細私鉄での若干の例外を除けばガソリンカーは見られなくなった。また1951年以降は私鉄向けディーゼルカーの新規製造も盛んになった。
さらに、基本設計を終えながら燃料統制の影響で実用に供されていなかったDMH17系機関が、1951年から量産化され、国鉄気動車に搭載されるようになった。DMH17系は、当時の日本で気動車用大型エンジンとして実用可能な唯一の存在であったことから、以後国鉄・私鉄を問わず広く用いられるようになる。

液体式気動車


1950年代初頭まで、日本の気動車はほとんどが、マニュアル自動車同様の選択摺動式の多段変速機と手動(ないしは足動)クラッチによって速度制御を行う、「機械式気動車」であった。
この方式は単純で低コストではあったが、複数車両の遠隔操作(総括制御)が不可能なシステムであり、2両以上の連結運転を行う場合には、各車両に運転士を乗務させ、汽笛かブザーの合図によって協調運転を行わなければならなかった。これでは合理化に逆行し、また実用上4両以上の長大編成も困難であった。長大編成を組んでの高速運転はほぼ不可能であり、幹線輸送の主力とはなり得なかったのである。
1930年代には、欧米で主流であった「電気式気動車」が日本でも若干試作された。ディーゼル機関で発電機を駆動させ、発生した電力で電車同様に台車装架のモーターを駆動させる方式で、電車と同様な複数車両の総括制御が容易なことが長所である。
国鉄の試作電気式気動車2形式はいずれも失敗作に終わったが、南満州鉄道ジテ1形(1934年)、相模鉄道キハ1000形(1935年)は一定の成績を収めた。しかしこれらは機器類が増加し、複雑・高コストで、当時の日本のエンジン技術では重量過大でもあり、既存の路線にそのまま投入できるものではなく、同様の車両が普及することはなかった。国鉄は1952年~1953年にも若干の電気式気動車を試作したものの、結局は「液体式気動車」の実用化成功によって以後の発展は途絶した(詳細は「日本の電気式気動車」の項を参照)。
トルクコンバータを用いた「液体式変速機」は、神戸製鋼所が1936年にスウェーデンから技術導入して試作したものが日本での最初である。変速機の構造自体は複雑であるが、機械式気動車の変速機をそのまま置き換えることができる、総合的には簡易なシステムであった。しかも軽量で遠隔操作可能なことから、国鉄もこれを有望視し、早くも1940年に実車試験を行っている。しかしながら戦争の影響で開発は頓挫し、本格的な開発再開は1951年まで待たねばならなかった。
実用化された液体変速機を搭載した最初の液体式気動車キハ44500形は1953年に完成、当初は空転などの問題もあったが改良を重ねて克服し、全般に軽量かつ簡素な構造で気動車の総括制御が実現できるようになった。同年から量産型の液体式気動車キハ45000系(のちのキハ10系)が大量増備され、蒸気機関車牽引の長大な客車列車をも代替できる存在となったことで、気動車は国鉄線に急速に普及してゆく。
さらに大型軽量ボディの実用化により、1956年には準急列車仕様のキハ44800形(のちのキハ55系)、1957年には普通列車用のキハ20系が登場、従来の客車と装備面でも遜色なくなったこれらの気動車は、旅客列車近代化の大きな原動力になる。
液体式気動車の普及は、国鉄の輸送体制そのものだけではなく、鉄道沿線の地方住民・自治体などにも大きな影響を及ぼした。1960年代以前は大都市近郊でも非電化区間は多く、幹線でさえ蒸気機関車による運行が相当な割合を占めていたため、多くの非電化路線の沿線では「無煙化」こそが鉄道近代化の象徴であり課題となった。従って、都市部以外の非電化路線においては無煙化と高速化を実現できる気動車への期待と需要は非常に高まることとなった。
実際、この当時、新造される気動車の配置先を巡って、地方選出の国会議員地方自治体首長が国鉄本社に陳情を繰り返し、時に予算面等から干渉しようとしたり、地元への気動車導入を選挙公約に持ち出したなどのエピソードは少なからず残されている。国鉄側もこのような情勢から、一時期は新製気動車の配分を巡っての対応に苦慮することもあったという。

私鉄気動車開発の低迷


第二次世界大戦前、気動車の分野においては私鉄および車両メーカー独自の技術的開発が非常に盛んであったが、戦後は下火になった。元々気動車を用いる私鉄は中小私鉄が多く、独力での開発よりは、基本的にメーカーが開発した新技術を先行的に採用するというスタンスであった。
戦前に地方で亜幹線・主要ローカル線クラスの地位にあった地方私鉄で、気動車を多数導入し成功した鉄道のうちいくつか(中国鉄道〔現・JR津山線ほか〕、相模鉄道〔初代、現・JR相模線〕、北海道鉄道〔現・JR千歳線〕など)は、戦前・戦中に国家買収され、国鉄線となっていた。また、大手私鉄路線となり、すぐに電化されたケース(神中鉄道など)も見られる。
さらに国鉄の近代化に伴い、キハ41000形や買収私鉄引き継ぎ車などの機械式変速機を装備した戦前型国鉄気動車が余剰となり、私鉄向けに大量に払い下げられるようになったことで、独自の車両開発の必要性が以前ほど強くなくなった面もある。戦前に大型車開発などメーカーと協力して革新的な試みを行った江若鉄道も、戦後は国鉄払い下げ車が主力になってしまっていた。
代わって戦後の気動車導入の旗頭となったのは北海道を中心とした運炭鉄道で、戦後しばらく石炭産業が好況にある一方で石炭価格が高騰していた事情から、液体式気動車出現の前後の時期には各社で特色ある気動車を多く導入している。特に夕張鉄道キハ200形(1952年 機械式)・キハ250形(1953年 液体式)は国鉄の北海道における気動車導入拡大にも大きな影響を与えたとされる。
またこの時代、大手私鉄のほとんどは既に電化され、気動車業界で国鉄と技術競争を行う相手になり得なかった。戦後の大手私鉄で優等列車用の気動車を保有したのは名古屋鉄道小田急電鉄南海電気鉄道の3社のみで、いずれも国鉄線乗り入れを目的としたものであり、独自に東急車輛製TS-104系台車を採用した小田急以外は、エンジン、変速機等の動力系をはじめ、運転台機器も国鉄気動車と揃えられていた。
私鉄の独自性は、車体デザインでは優等車専用車(1955年 小田急)のほか、転換クロスシート車や通勤用車など各社の事情に合致した多種多様なバリエーションに発揮された。しかしこれに対して機器類については、国鉄がDMH17系エンジン搭載の液体式気動車を大量増備していた状況を考慮すれば、国鉄の標準型エンジン・変速機の安定した実績をそのまま利用する方が、製造ロット数の僅少な私鉄気動車には有利であった。国鉄に先駆けたDMH17系エンジンの180PS化(1955年 小田急電鉄)、歯車駆動式の2軸駆動台車(1955年 留萌鉄道)、空気バネ台車(1958年 札幌市交通局、1959年 常総筑波鉄道)、流体継手の採用(1957年 夕張鉄道)など、一部私鉄には技術面での意欲的な試みもあったものの、それ以上の発展を見ない単発的な導入に留まったケースがほとんどで、私鉄あるいはメーカー経由で後続の技術開発に十分活かされるまでには至らなかった。
こうして1980年代初頭まで、日本の気動車技術は完全に国鉄主導で展開されることになり、ひいては技術的停滞の一因ともなった。

優等列車分野への進出


機関車牽引列車よりも総合的な高速性に優れ、なおかつ編成運転を行える液体式気動車の出現は国鉄における新たな展開を促し、まもなく優等列車への投入という形で発展した。
1953年以降、気動車による快速列車が運転されるようになり、1955年には関西本線御殿場線で気動車準急列車が運転を開始、1956年には幅広軽量車体の準急形キハ44800形(のちキハ55形)が出現して、客車に比しての居住性の遜色は相当に改善された。気動車準急列車は利用客からも好評を得て1960年頃までに日本全国に普及、さらに1958年からは気動車急行列車が出現した。
そして1960年には空気バネ台車と空調設備を装備し、食堂車を連結した初の特急形気動車キハ80系が開発され、東北本線特急「はつかり」に投入される。当初は故障が頻発したが後に克服し、キハ82、キシ80形を加えた改良型キハ80系は、1961年以降大量増備され、日本全国に特急網を整備するなど、大きな成功を収めた。
1953年から1968年までに5000両を超える国鉄気動車が増備され、イギリスをもしのいで気動車保有世界最多を誇ったのもこの時期である。未電化路線が多かったため、地方路線の高速化・サービス向上に気動車は大量導入され、著しい実績を収めた。その意味から言えば、1960年代は国鉄気動車の最盛期とも言える時代である。


1960年代以降の展開


1960年代以降、国鉄が主要幹線の電化を進めたことで、気動車の存在は徐々に二線級となって行く。国鉄では気動車の性能向上の試みも行われたが概して芳しくない結果に終わり、国鉄経営及び労使間関係の悪化を背景に技術的停滞が続いた。

大出力エンジン開発


日本の鉄道用ディーゼル機関技術は、気動車用標準型「DMH17系」(150 PS~180 PS)、ディーゼル機関車用標準型「DML61系」(1,000 PS~1,350 PS)の実用的な成功以後、保守・堅実の傾向を強め、1950年代~1970年代を通じて、欧米からは立ち後れていた。
これらのエンジンは信頼性こそ高かったものの、サイズや排気量の割には低出力かつ高燃費であり、優等列車・勾配線用気動車や幹線用の大型機関車では1両にエンジン2基を搭載する必要があった。このような問題を解消するため、国鉄では気動車用に過給器を装備した大出力エンジン開発の試みが続けられていた。
1959年にDD13形機関車のDMF31S系エンジン (370 PS) を水平シリンダ型のDMF31HS系 (400 PS) に設計変更して気動車に転用することで、キハ60系(キハ60形・キロ60形)が試作されたが、エンジン・変速機技術、特に大出力を受け止める変速機設計技術の未熟から実用化に失敗した。
1966年には、全面的に新開発されたDMF15系 (300 PS) およびDML30系 (500 PS) 機関を搭載した急行形気動車キハ90系を試作、一定の成績を収める。
これに伴い、1968年にはDML30HS系機関を搭載した特急形気動車キハ181系を量産化した。このDML30HS系機関は翌1969年に、急行形気動車の冷房電源確保用として開発されたキハ65形にも搭載された。
しかし、DML30系機関は必ずしも全面的な成功作とは言い難かった。旧弊な副燃焼室式中速ディーゼルエンジンを発展させたDML30系エンジンの発熱量は設計段階での想定以上に大きく、また過給器付の多気筒エンジンであり構造複雑で騒音・振動が大きく、85 km/h以下の全速度域において動力変換効率の低い変速段を常用する液体変速機の特性もあって、いくつもの整備面の課題を抱えていた。
これらの問題に加え、キハ90・181系ではコストダウンと機関出力の有効利用を狙って屋根上搭載型の自然放熱式冷却機構が採用された結果、急勾配区間が連続する山岳線での運用において放熱能力不足による機関・排気管の過熱トラブルが頻発した。この問題を克服するには別途強制冷却機構を追加する必要が生じ、設計時期がやや遅れたキハ65形以降では、軸重の制約もあって機関出力の損失を承知で強制冷却機構のみとしている。
このDML30系機関は実用化と相前後して幹線電化が進展し、優等列車用気動車増備の需要が一段落したことや、量産開始後にオイルショックが発生し、国鉄が従来非電化のままでの近代化を計画し、一時はガスタービン動車の導入さえ検討していた亜幹線クラスの路線についても電化を推進するように方針転換したこともあって、その生産数は伸び悩んだ。
1970年代中期までのDML30系機関の採用例は、キハ181系・キハ65形以外には北九州地区の快速用キハ66系と試験車のキヤ191系の2系列があるのみで、しかも当初は「汎用気動車」を標榜し次代の一般型気動車のひな形とされたキハ66系は軸重過大などの理由から製造両数は30両にとどまった。1976年までのDML30系機関搭載車の総数は、試作車であるキハ90系を含めても307両と当時5,000両を数えた国鉄気動車の総数からすればわずか6%程度の低水準である。
しかもキハ66系では先行したDML30系機関搭載各系列でのエンジントラブルに鑑み、その対策として当初から440 PSに出力が抑制されており、後にキハ181系などでも信頼性向上のために出力低下措置が実施されている。

ガスタービン動車の試用と挫折


こうした大出力ディーゼル機関の開発・実用化を進める一方で、国鉄は1966年度より国外で実用化が報じられていたガスタービン動車の開発研究を開始していた。
キハ181系の量産がスタートした1968年度には汽車製造東京製作所で廃車となったキハ07形ヘリコプター用機関を転用した1,000 PS級機関を搭載し、キハ181系用に開発されたDT36・TR205B台車を装着して構内にて試運転後、鉄道技術研究所の車両試験台上で試験を実施し、最高153 km/hに達する高速走行性能が確認された。
さらに1969年から1970年にかけて磐越東線で走行試験を実施して様々なデータが収集され、1972年には完全新規設計によるキハ391系試作車が国鉄大宮工場で製造されるに至った。
このキハ391系は591系電車と同様、在来線の高速化を目指して開発された高速運転用の試作車であり、ガスタービン機関の搭載のみならず様々な試験要素を盛り込んで設計されていたが、試験中の1973年にオイルショックが発生し、燃料消費率が過大でしかも騒音の大きいガスタービン機関を気動車に搭載することが困難な情勢となった。
このためガスタービン動車の開発は中止となり、量産車の投入が検討されていた紀勢本線伯備線田沢湖線については電化で対処されることとなった。
フランス国鉄ではガスタービン車が営業運転に供され、その技術はカナダアメリカにも輸出されたが、日本での技術開発には影響していない。

停滞期


1970年代中期になると、初期液体式気動車の10系気動車が老朽化したことで置き換え需要が生じたが、代替車としては当時の激しい労使紛争と国鉄経営の悪化を背景に、重い車体に非力な220 PS機関を搭載した、1950年代の旧型車と大差無い低性能車であるキハ40系が普通列車用気動車として大量増備された。
また、1979年に開発された北海道用の特急形気動車キハ183系も、搭載したDML30HS系エンジンは信頼性優先で出力抑制されており、気動車の性能向上の動きはしばらく停滞した。




近年の質的改善


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2富士重工業のLE-CarII(画像は樽見鉄道のハイモ230形
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4JR四国2000系(世界初の実用振り子式気動車)


日本の気動車が性能向上などの質的改善を本格的に軌道に乗せたのは、1980年代以降になってからのことである。
背景としてはエンジン技術自体の向上が最大の要素であるが、国鉄の経営悪化に伴い改革の動きが生じ、経営・現場の両面で従前の硬直化した体制が打破され、新しい革新的技術の積極的導入が可能となったことが大きい。
また、国鉄改革に際し廃止対象となった赤字路線の第三セクター鉄道転換に伴って各車両メーカーが小型軽量の新型気動車(レールバス)の開発に取り組み、この種の軽量車両での顕著な技術的成果が、より大型の気動車にエンジンも含めてフィードバックされたことも契機となった。1981年以降、富士重工業が「LE-Car」の名称でバス部品を多用した小型気動車を開発し、1984年以降私鉄での営業運転に導入されたほか、新潟鐵工所も簡素な設計の小型気動車を「NDC」の名称で開発、1985年以降私鉄に順次導入された。ことにNDCは国鉄末期に新製されたキハ31形キハ32形などにも影響を与えたほか、JR各社にもアレンジされる形で導入例が生じている。
これらの体質改善においては、エンジン性能向上のほかにステンレス車体の採用による軽量化、台車の軽量化・空気バネ化による走行性能及び乗り心地の向上、変速機の多段化による効率改善、優等列車用の高速車両での振り子式機構の採用などが定型的に用いられている。この結果、JR各社における一部の強力型気動車については、既に電車と遜色ない性能水準に到達している。
新型気動車の導入は、燃費改善・検修の合理化・ワンマン運転の実現など経営改善策となり、また速度向上や冷房の設置など旅客サービス改善をも実現できた。


エンジン性能の改善


エンジン自体については、燃焼効率に優れる直接噴射式(それ以前の主流は予燃焼室式)の採用、吸気弁・排気弁の気筒あたり2弁化やインタークーラーをも併用した高効率な過給の実現、燃料噴射における電子制御の導入などが、従来よりも小型高性能なディーゼル機関を実現した。
現在気動車用エンジンの主流となっているのは、次の各社のエンジンである。
1Tarumi-Haimo230-310DC.jpg
2富士重工業のLE-CarII(画像は樽見鉄道のハイモ230形
3Nannpu-2000kei.JPG
4JR四国2000系(世界初の実用振り子式気動車)
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2JR東海キハ85系(外国製エンジンを本格的に採用した
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4JR北海道キハ283系(小松製11L級エンジンと直結4段式変速機を装備)
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6JR北海道キハ40形300番台(新潟製DMF13HZ系エンジンへの換装に合わせて、機関直結式クーラーを搭載した例


これら3系統の11~15 L級の6気筒エンジンが、21世紀初頭現在の日本における気動車用エンジンの主流であり、必要に応じてチューニングすることで、普通列車用のレールバスから特急形車両にまで広範に用いる手法がJR各社において半ば常識化している。
また従前の日本の気動車では、1両あたり400 PS以上の出力を要する場合には、構造複雑なDML30HS/HZ系機関を搭載する以外に選択肢がなかったが、整備性や経済性の改善された6気筒直噴エンジンが出現すると、特急型車両を中心に新型6気筒エンジンを1両に2基搭載する事例が多く見られるようになった。また、非力だったキハ40系を中心に、これらの新型エンジンと新しい変速機に換装することにより走行性能を改善させることも行われている。あわせて、換装後の機関の余裕出力により冷房化を図るケースも見られる。詳細は次項を参照のこと。


冷暖房システムの変化


普通列車用気動車の冷房化は長らく立ち後れていたが、1980年代中期以降著しく進展した。これはエンジン出力の向上と、電車や客車と共通の電動式冷房装置に代わり、バス用の直接駆動式冷房装置を採用するようになったこととが影響している。
国鉄気動車は長年にわたり、冷房システムを電車と同一の電動式冷房装置に依っていた。このため空調やサービス機器用の電源は、専用エンジンを用いた発電機を搭載して確保せねばならなかった。たとえばキハ58系では、冷房用電源の4VK発電機を搭載したキハ65・キハ28・キロ28が編成に含まれなければキハ58の冷房が使えず、冷房サービスを敷衍させるには自由度を欠いていた。また単行運転される両運転台気動車は、空調用電源エンジンを搭載するスペースの余裕がないか、スペースがあっても過剰装備となりコスト面で不利なことから、容易に冷房化できない状況が続いていた。
高出力型の直噴6気筒エンジンを搭載した新型気動車では、出力に余裕があることから、バス同様、冷房装置の空調用コンプレッサーを走行用エンジンの余力で直接駆動するように改められた。廉価なうえに、気動車1両単位でシステム完結した冷房化が可能なため、国鉄末期に登場したキハ185系などを皮切りに、単行運転向けの両運転台車から、特急型車両に至るまで多くの気動車でこの種の方式が採用されている。走行用エンジン出力が不足気味の車両では、一部のバスと同じく、別搭載の小型サブエンジンによってコンプレッサーを直接駆動する方式が採られている。
一部の車両は、空調用コンプレッサの代わりに発電機を駆動し、電気式冷房装置を稼動させている。この方式では、冷房を使用しない時期の発電電力を電気暖房に使う事ができるため、従来の機関廃熱利用の温水暖房に比べ、大幅に冷却水系統を縮小できるため、メンテナンスコストの軽減にもつながる事となる。このシステムの採用例は徐々に増えつつある。例として、キハ283系気動車があるが、この車両はAC三相440V 60Hz、25kVAの油圧駆動式発電機を各機関に1台(1両で2台)装備し、冷暖房兼用空調装置のほかに別に装備された電気暖房の電源としても使用している。


既存私鉄気動車の質的改善


一方、第三セクター以外の従来からの非電化私鉄各社も、モータリゼーションの進展を背景に1980年代までに多数の路線廃止が生じ、残存した会社もその多くが慢性的な赤字経営に陥っていた。この時期になると、これらの在来非電化私鉄における気動車の需要は老朽在来車のやむを得ない置き換えに限られ、それも国鉄や廃止私鉄の中古車両を譲受することで充足された。
このような状況から、地方私鉄で完全新製の気動車を1970年代まで増備し続けたのは、小湊鐵道ただ1社のみであった。同社は1961年に国鉄気動車を設計ベースとしたキハ200形を新製したが、これを僅かな改変のみで1977年まで新製増備し続けた。搭載エンジンは初期車から最終増備車まで一貫して前時代的なDMH17C形機関であり、形式統一を優先したが故の特異例と見ることができる。
また高度成長期以降沿線のベッドタウン化が進展していた関東鉄道常総線は、本来ならば電化すべき輸送密度であるが、近隣の柿岡に地磁気観測所が所在する関係で単純な直流電化は地磁気観測所に影響が生じるためできず、地磁気観測に影響しない交流電化も高コストになるという不利な立地条件にあった。このため同社は、日本の気動車としては珍しい3扉ロングシート仕様の純通勤形車両を1970年代後半から1980年代前半にかけて製作したが、それらは古い国鉄払い下げ車からエンジン・台車・変速機等の主要機器類を流用し、車体のみを新製したDMH17機関搭載車で、技術的な新味には乏しかった。
1980年代後半までおおむねこのような停滞状況が続いたが、この時期になると国鉄改革の影響で設立された第三セクター鉄道向け小型気動車が比較的ローコストで供給されるようになり、既存非電化私鉄でも、合理化と旅客サービス改善を念頭に置いてこの種の車両を導入する動きが生じてきた。
この結果、全面置き換えないしは主力車両としての位置づけで、1990年代以降新型気動車の導入が各私鉄で進んだ。ほとんどは鉄道車両的体質の強い新潟鐵工所製NDCのバリエーションで18m級以下が多いが、輸送量の多い通勤路線である関東鉄道や水島臨海鉄道では、NDCの機構をベースとした通常形気動車と同等の20m級大型車も出現している。
これらの新車群の出現と並行して、在来形気動車のワンマン化・冷房化改造・エンジン交換等の動きも生じている。
しかし第三セクター各社共々、非電化私鉄には経営困難な状況の路線が多く、新型車両を導入した鉄道でもなお経営改善を実現するまでには至っていない。新型気動車を導入するまでに至らず、貨物輸送のみを残した例も含め、旅客営業を廃止した私鉄は1990年代以降も多数の例が生じている。

今後の課題


昨今ではディーゼルエンジンの環境に対する悪影響が強く指摘され、気動車エンジンにも環境対策を施す例が見られるようになっている。鉄道における内燃車両の排気ガス対策は、自動車や船舶に比べても立ち遅れており、日本でもようやく本格的な取り組みが始められようとしている。
また、2003年にはJR東日本とJR総研により、ハイブリッド気動車であるキヤE991形「NEトレイン」が協同試作され、試験に供された後、実用試験車のキハE200形が2007年7月より小海線へ投入されている。
JR北海道では2007年10月、JR東日本とは異なる方式のハイブリッド気動車(モータ・アシスト式ハイブリッド)を開発し、キハ160形を種車に試験車両であるITT (Innovative Technology Train) を完成させた。こちらは機器の大きさや費用がJR東日本方式の半分程度ですみ、既存の気動車への取り付けも可能なシステムとなっているが、2009年時点では営業運転に投入されるまでには至っていない。
さらにはディーゼルエンジンそのものを代替する技術として燃料電池の導入も考えられるようになってきており、先述のキヤE991形は2007年11月に燃料電池動車(クモヤE995形)へ再改造され、試験に供されている。
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:ハイブリッド気動車「NEトレイン」
:ハイブリッド気動車「ITT」




注釈





関連項目


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カテゴリ:日本の鉄道史