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| 東北地方のデータ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 6県の合計 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 面積 | 66,889.55km² | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 推計人口 | '''。そのため、当地方の支配の中心地とされた仙台にある国の出先機関が新潟県を管轄する場合があったり、仙台の陸軍第二師団司令部の管轄(仙台師管区)が宮城県・福島県・新潟県の3県であったりした。 民間でも、明治10年代から「東北」の称が頻繁に用いられるようになっていったが、新聞・雑誌各誌では、仙台に本拠を置く出版社を中心に、広く東北6県および新潟県で「東北」を冠した新聞・雑誌が発行され、新潟市でも「東北日報」という新聞が発行されていた(仙台でも同名の新聞が発行されていた→後の河北新報)。また、現在の北陸本線にあたる、近畿地方から新潟県柏崎までの路線建設を計画する会社が1881年(明治14年)7月に設立されたが、その名称も「東北鉄道株式会社」であった。すなわち、1868年の東京奠都および明治天皇の東京行幸の後、京都の他に明治政府が所在する東京も都との認識が生まれ、「東北」の定義域は、畿内から見た場合は現行の東北6県および北陸地方、東京から見た場合は現行の東北6県として認識されていたことになる。 現在でも、法的・経済的に新潟県が東北地方に区分される場合がある。それは、明治時代から始まった水力発電との関係が強い。当地での電源開発の最重要地域の1つに阿賀野川(只見川)があるが、これは新潟県下越地方と福島県会津地方(両地域とも分水嶺である奥羽山脈の西側)を流域としており、電力において下越地方と会津地方は不可分であった。このため、「東北7県」を供給範囲とする電力会社として、戦中の1942年には国家総動員法と配電統制令により東北配電、戦後の1950年には電力事業再編政令により東北電力が設立され、その後も「東北7県」を対象範囲とする地域開発の法律がつくられた。
経済においては、これら法律の「東北7県」の枠組みにしたがって東北経済連合会が構成され、関連する産・学・官連携シンクタンク(現在の名称は「東北開発研究センター」)、研究開発機構(東北インテリジェント・コスモス構想など)、地域ベンチャーキャピタルや地域投資ファンド、観光事業などでも新潟県が含まれている。 東北経済連合会では、東京都より北に本社を置く企業で最大である東北電力がリーダーシップをとっており、その経済力を背景に、同社提供のブロックネットのローカル番組が複数制作されて「東北7県」(番組内では「東北地方と新潟県」という)に放送されたり、同社が関係して「東北7県」の地方紙で連携企画が掲載されたりしている(→河北新報#紙面参照)。 以上のように、東北電力関連や経済政策の面においては、「東北7県」を以って「東北地方」とする例が見られる。しかし、新潟県は、明治初期において日本で最も人口の多い道府県であり(→都道府県の人口一覧)、1940年の統計で新潟県1県の工業生産額が南東北3県合計とほぼ同じであるなど経済背景も異なる。新潟県の県庁所在地である新潟市と東北諸地域を結ぶ交通網では、1914年に磐越西線、1924年に羽越本線、1997年に磐越自動車道が全通し、2002年に日本海東北自動車道の一部が開通したものの、仙台に立地する機関が新潟県を管轄して「東北7県」とする例は限定的である。そのため、新潟県を東北地方に編入する場合は、「東北地方」との呼称を用いずに、「東北7県」「東北地方と新潟県」「奥羽越」「東北圏」などと言って区別する例が多い(→新潟県#新潟県の分類)。 実際のところ、新潟県を東北地区として管轄する国の出先機関が存在しない事に加え、県民の東北への帰属意識が希薄であるため、新潟県民および東北6県の県民には新潟県が東北であると言う概念は皆無に等しい。 歴史
奥州(東北地方)は、近畿地方の諸政権(天皇・公家政権、室町幕府、豊臣政権)が支配した時代には、政権所在地からは遠いため、半独立的な政治勢力が生まれていた。しかし、関東地方の諸政権(鎌倉幕府、江戸幕府、明治政府)には近いため、政権への従属的傾向が強くなる。明治以降は、知識層である武士階級を大量に失い、野蒜築港が台風のために2年で閉港となったため、開港場が近くにない唯一の地方となって資本主義経済に乗り遅れた。また、日本人の9割以上が農民だった明治期までは、寒冷地であるため農産物による人口の涵養ができずに、人口の少ない地方となっており(→都道府県の人口一覧)、国内市場としての重要度も低かった。 現在は人口も増え、新幹線が全ての県に通っている唯一の地方となり、高速道路の整備も進んだため、東北地方内における陸上交通の再編と経済圏の形成が進んでいる。一方で、人口の仙台都市圏への集中、その他の地域の過疎化も進んでいる。 旧石器時代旧石器時代は氷河期に当たり、現在よりも寒冷であった。そのため、当時の海岸線は現在よりも沖合いにあり、現在は海底に沈んでいるため、海岸線での生活についてはほとんど判っていない。内陸の生活については、東北地方でも富沢遺跡や金取遺跡などで判るが、他の幾つかの遺跡が旧石器捏造事件によって研究が振り出しに還ってしまったため、現在検証作業中である。 縄文時代縄文時代には気候が温暖化して、東北地方も現在より暖かかった。当時の採集・狩猟・漁労を中心とした生活では、西日本よりも東日本の方が生活に適しており、関東地方・中部地方・東北地方の諸地方の人口が多かった。最も人口密度が低かった近畿地方・中国地方・四国地方と比べて、人口密度が最も高かった関東は30倍以上、東北も5倍〜10倍程度の人が住んでいたと見られている。そのため、1440年も続いた巨大集落である三内丸山遺跡などが造られ、関東や北陸などと共に縄文文化の中心を担った。 弥生時代弥生時代になると、大陸の中国・長江下流域から水稲耕作技術(ジャポニカ種)が九州北部などに伝わった。それまで人口の少なかった九州・山陰・山陽・近畿の諸地方は、これで人口が急増し、以後、日本の中心地となっていく。東北に水稲耕作技術が伝わったのは弥生時代前期であるが、一般的には紀元前後と見られる弥生時代中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、特に北部においては続縄文文化であったとする見方もある。 ※ 弥生中期、北端の青森県の垂柳遺跡・砂沢遺跡でも水稲耕作が行われていた形跡は見られるが、その後の気候の寒冷化により、稲作は長い中断を余儀なくされたとみられる。 古墳時代古墳時代には、東北地方でも多くの古墳が造られた。青森県でも古墳が見られるが、小規模な終末期古墳に限られる。古墳が集中している地域は仙台平野や会津地方などの東北地方南部となっている。また、奈良盆地に起源があるとみられる前方後円墳も造られ、ヤマト王権との交流がすでに始まっていたと考えられている。東北地方最大の前方後円墳は、宮城県名取市にある雷神山古墳である。 古代古代に入ると、ヤマト王権と東北地方との関係は、古墳時代までの緩い連合体、文化交流のレベルから、より強い主従関係、ないしは中央集権的な都と地方という関係が強まっていく。 畿内政権側から見た古代の東北地方と、新潟県の米山峠以東(中越地方・下越地方・佐渡島)は「未征服地」であり、畿内政権に服従しない異民族「蝦夷(えみし)」が住んでいるとされた(蝦夷の住んでいた範囲には諸説ある)。以降、古代から中世にかけて、畿内政権側の征服戦争と、東北地方(特に奥六郡)の独立や半独立の動きの中で、征夷軍と蝦夷軍が衝突し、東北地方の歴史は作られていった。 7世紀中期〜後期に、天皇を中心とした強力な官僚制が志向されるようになると、それまでの地方豪族が国造として独自に支配していた地方分権体制から、中央集権体制へと国家体制が大きく変化した。 この流れの中で、7世紀半ばに、太平洋側の現在の福島県から宮城県中部辺りまでと、山形県の南部(置賜郡)と中部(最上郡)が畿内政権側に服従し、常陸国から分離される形で道奥国(みちのく。後に陸奥国)が設置された。この地域は、古墳時代に前方後円墳が幾つも造られた地域である(7世紀の内に、宮城県内は平定された)。 日本海側では、すでに新潟県上越地方(頸城郡)まで征服したヤマト王権と越国(こしのくに)の連合軍が、「柵(き)」と呼ばれる前線基地を築きながら北進する。まず、647年に渟足柵(現在の新潟市中心部)、さらに648年に磐舟柵(現在の岩船郡、村上辺り)を設置し、日本海沿岸を次々と越国に組み入れていった。658年になると、越国守であった阿倍比羅夫が、180艘の軍船を率いてさらに日本海沿岸を北上し、「鰐田(あぎた)の浦」(現在の秋田市周辺?)から津軽地方へと到った(日本書紀)。これが蝦夷征討なのか武装交易船団なのかは定説がない。少なくともこの阿部水軍は658年〜660年の間に三度来航し、交易をして帰っている。その後、畿内政権と同盟関係にあった百済が新羅の侵攻を受けたため、阿部水軍もその戦列に加わり東北日本海側への遠征は中断された。 律令制整備が進み、中央集権国家として確立してくると、さらに地方の支配体制の整備も進んだ。朝廷軍は、北進して庄内地方に達し、現在の酒田市の最上川河口部辺りに出羽柵を設置。越国(こしのくに)が越前国・越中国・越後国の3ヶ国に分割されると、708年(和銅元年)9月28日、庄内地方に出羽郡が設置され、越後国に組み入れられた。この出羽郡は、712年(和銅5年)9月23日に越後国から分立して出羽国になり、しばらく後に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて、沿岸国だった出羽国は内陸部を得る(国府は現在の酒田市の北東部にある城輪柵遺跡に設置されたと考えられている)。さらに北進した畿内側の軍は、733年に出羽柵を秋田高清水岡(現在の秋田城跡)に移した。ただし、現在の秋田県の領域では、沿岸部のみが支配下に入っただけで、内陸部はやや緩い支配だった。 724年には、東北太平洋側に多賀城などが築かれ、南東北は朝廷側の支配体制に完全に組み込まれた。北東北では、北上山地で太平洋と隔絶され、多賀城からも離れている現在の岩手県内の北上川流域(=奥六郡、日高見国)、および、秋田県の横手盆地などが蝦夷の勢力域として残り、その後の朝廷(多賀城)との抗争に続いていく。 780年の光仁天皇の時に伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城を奪った。平安時代の桓武天皇は、3回に渡る蝦夷平定を行い、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって、蝦夷軍のアテルイと戦って勝利し、奥六郡に胆沢城を築いた。敗れた蝦夷軍は朝廷への服従を誓って俘囚となり、一部は日本各地に集団で強制移住させられた。 朝廷の支配が確立すると、関東地方や北陸地方から多数の入植者(柵戸)が入り、東北地方の内地化が進んだ。俘囚の中から安倍氏が勢力を伸ばして奥六郡を支配したが、源頼義と対立し滅ぼされ(前九年の役)、その後清原氏が勢力を張ったが源義家に滅ぼされた(後三年の役)。 中世平安時代末期から中世初期には、北上川流域(奥六郡)で奥州藤原氏が栄え、平泉が平安京に次ぐ日本第二の都市になるまで発展する。この時、奥州藤原氏は、平安京の畿内政権側から半独立が保障されていた。しかし、源義経を匿ったかどで、鎌倉政権側に討伐の口実を与えてしまい、源頼朝により滅ぼされた。 その後板東出身を中心とする武士団が多く配置されるとともに、北条氏の所領が広く設定されたが、一部には津軽地方の安藤氏のように在地領主と見られる豪族も勢力を維持した。安藤氏は北条得宗家から蝦夷代官に任命され、北東北から北海道を支配したといわれている。安藤氏の本拠地十三湊は交易で栄え、日本有数の都市となった。しかし、室町時代には安藤氏は南部氏との抗争により津軽を追われ秋田地方に移り、十三湊の繁栄は失われた。 鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇の建武の新政では、奥州平定のために北畠顕家が派遣され、陸奥国府を支配した。後に室町幕府は奥州探題や羽州探題を設置したが、これらは後に関東を統治した鎌倉府に統合された。一方で室町幕府直属の京都扶持衆も多く見られた。 戦国時代には山形の最上氏、伊達の伊達氏、三戸の南部氏、会津若松の蘆名氏などが勢力を揮った。蘆名氏は後に滅ぼされた。関ヶ原の戦いの後、常陸国水戸の佐竹氏が安東氏の後裔の秋田氏と入れ替わりに秋田に転封された。 なお、出羽国の内陸部(奥羽山脈の西側に連なるいくつもの盆地群)は、甲斐国の武田信玄と同様に、盆地の領域支配を早々と確立し、東北地方の戦国時代の主役を担った。それは、職業歩兵(軍人)である足軽が農民から分離されていなかった戦国初期においては、組織できる兵力に限界があり、盆地程度の広さが領国支配に適していたためで、出羽国内陸部の盆地の諸勢力は、陸奥国領域にも積極的に攻勢に出た。 江戸時代近世、江戸時代の有力な大名としては、上越市から会津若松、さらに米沢に移った上杉氏、保科正之を家祖とする会津松平氏、米沢から仙台へ移った伊達氏、秋田の佐竹氏、盛岡の南部氏などがある(山形の最上氏はお家騒動で後に改易され、近江で五千石の旗本となる)。 江戸時代後期の天明年間の地球的な気象変動などにより起こった天明の大飢饉では、10万人以上の餓死者、疫病者を出し、多くが無宿者となり江戸へ流入した。その中で、米沢藩主上杉鷹山などは藩財政の改革を行って飢饉に抗した。天保の大飢饉でも東北地方は多くの死者を出した。 江戸幕府が倒れて後、幕末の1868年には北陸地方東部の北越戦争から続く会津戦争など戊辰戦争の舞台となり、東北や北陸東部の諸藩は奥羽越列藩同盟と呼ばれる軍事同盟を結んで新政府軍より身を守ろうとしたが、結局敗れた。この報復として、同盟に参加した藩は所領を大幅に減らされ、その経済は壊滅同然にまで追い詰められた。その結果北海道(蝦夷地)へと口減らしも同然に家臣団(武士階級、知識階級)などを移住させざるを得ず、東北発展に取り返しのつかない打撃を与えた。新政府側につき、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩・弘前藩などもまた、戊辰戦争で多くの犠牲を払い莫大な出費をしたため、困窮は避けられなかった。 近代1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われた。同日、陸奥国は、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥国に、出羽国は、羽前・羽後に分割された(この分割によりできた「陸前・陸中・陸奥」は「三陸」とも呼ばれ、リアス式海岸の「三陸海岸」や、世界三大漁場のひとつ「三陸沖」などの語に用いられている)。1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県などを経て、現在の東北6県が作られた。 この時期、戊辰戦争により明治政府はその権力基盤を確立し、幕藩体制に則った社会秩序は完全にその権威を失った。西南諸藩に比べ、もともと経済基盤が弱かった東北地方の諸藩では、秩禄処分によって経済的な困窮へと追い込まれた各地の領主と家臣団による窮余の策として「北海道移住」と「帰農」が広く行われた。また後進地域だった東北地方では、農村部の商工業や貨幣経済の浸透も遅れていたため、土地の産物ではなく貨幣により税金を払うシステムが初めて導入された地域では、現金収入を得ることに慣れない人々に大きな混乱を与えた。例えば現在でも「奥羽越列藩同盟」の旧勢力圏である東北6県(官軍側となった旧秋田藩領域なども含む)と新潟県の「大学進学率」や「高学歴住民の割合」に見られる通り、当時の悪影響は現在までも尾を引いているなどともといわれている。 また明治以降の富国強兵・殖産興業の時代においても、郡山盆地における安積疏水、宮城県の野蒜築港、東北帝国大学設置、岩手県の釜石製鉄所などの例外を除いて、政府は東北地方での大規模な投資や開発に積極的ではなかった。野蒜築港が台風によって破壊された後も修復や代わりの港の建設はされず、東北本線などの鉄道開発も、官営による国家計画としては行われなかった。 大蔵卿・松方正義による松方デフレは、農産物の価格下落をもたらし、全国的に小作農の比率を上昇(小作農率の全国平均38%→47%)させた。その影響によって、全国的には富裕層による地主所有の寡占化が進み、また産業化(生糸産業・造船業など)が進んでいた関東の都市部などは経済が好調となった一方、常磐炭田周辺などを除き工業化の遅れていた東北地方は更なる経済的ダメージを蒙ることとなった。そのため多くの者が女工や各種労働者として都市部などへと働きに出ざるを得ず、また昭和になってからは、農家の次男・三男などを中心に旧満州国などへの移民が活発化した。1930年には昭和東北大飢饉(日本最後の飢饉)が発生し、身売りや欠食児童が続出、二・二六事件を起こす要因の一つとなった。 第二次世界大戦後は農地改革により、従来の封建的な地主小作関係は過去のものとなった。東北地方でも工業化が進み、生活水準に顕著な向上が見られたが、太平洋ベルト地域の著しい発展に取り残され、高度経済成長時代には東京方面への出稼ぎ、集団就職は非常に広い範囲で行われた。 方言東北方言 東日本方言に属し、太平洋側では関東方言との共通点が多くみられるほか、日本海側では関西方言の影響もみられる。この地域の中でも方言の差は激しく、ある地方では普通に使われている語が隣県では全く通じなかったり、同一県内でも全く特徴の違う方言が存在していることが少なくない。 東北地方の方言アクセントは、太平洋側南部(宮城県中部〜福島県)の無アクセント、南部日本海側から北部の大半にかけて分布する北奥羽式アクセント(外輪東京式アクセントの亜種)、三陸海岸北部の外輪東京式アクセントに大きく分かれる。 かつては聞き取りにくい・理解しにくい方言の代表として、鹿児島弁とともに挙げられることが多かった。また東北地方は他の地方と比べて決定的に開発が遅れた。そのため東北地方やその方言について、他の地方の人々から暗いイメージや否定的印象を持たれたり、方言に劣等感を抱く東北地方出身者も増えていった。東北地方の出身者が他の地方に赴いた時、極端に無口になるとといわれているのはこのような事情のためであった。 現代においては、温かい人情や素朴さの象徴とする肯定的見方も生まれたが、その話者にとっては「勝手なイメージ付け」に過ぎない点において他の否定的な評価と何ら変わるところではなく、方言話者にとっては必ずしも好意的に受け取られるとは限らない。現代では東北地方でも若い世代では方言の影響が薄れている一方、東北地方の貧困イメージも薄れつつあり、これらの古いイメージに最初から囚われない人も増えてきている。 なお、「一般的に東北地方の方言のものと思われている特徴」としては、
東北地方以外でその方言を聞ける場所の代表として、かつては上野駅(厳密にはJR東=旧国鉄の上野駅。特に長距離列車が多く発着した地上ホーム)がよくいわれた。実際に石川啄木の短歌や、高度成長期の望郷ものの流行歌に登場するなどもしていたが、しかし東北新幹線の東京駅への乗り入れ(1991年)などによって駅と東北地方との結びつきは劇的に弱まり、すでに過去のイメージとなりつつある。 人口東北地方全体としての人口動向を見てみると、戦後は自然増(第一次ベビーブーム)を中心に人口増の時代となり、1960年には東北地方全体で約970万人に達した。1960年代の高度経済成長時代には、「金の卵」の名の下に、主に京浜方面に集団就職したり出稼ぎに出たりするようになり、民族移動にも似た人口減(社会減)の時代に入る。この流れは1970年初頭まで続き、第二次ベビーブームによる大幅な自然増があったにも関わらず、1970年には924万人にまで人口が減った。その後、ニクソンショックとオイルショックによって低成長時代に入った東京への流出が減少し、東北地方は再び人口増の時代に入る。ベビーブーム終了後は、900万人を越える市場性と第三次産業への産業転換により地方中核都市の社会増が起き、日本全体の長寿化(死亡率低下)も手伝って堅調に人口は増え続けた。バブル景気期には、一時、東京圏から転入超過ともなり、20世紀末に約985万人に達した。21世紀に入り、東北地方全体の景気低迷と、高度情報化や金融の東京一極集中のために、人口は再び社会減による減少に転じている。今後は、長寿化の限界と団塊の世代の高齢化による死亡率の増加、および少子化の影響で自然減になり、人口は引き続き減少していくと見られている。
主要都市圏
県別人口・主要都市人口
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