TOP > 康生
| 各国語表記 | Lang|zh|康生 |
| 画像 | Kang Seng in Yan'an.jpg |
| 国略称 | CHN |
| 生年月日 | 1898年 |
| 出生地 | QIN1890山東省諸城県 |
| 没年月日 | 1975年12月16日 |
| 死没地 | 北京 |
| 出身校 | 上海大学 |
| 所属政党 | 中国共産党 |
| 配偶者 | 曹軼欧 |
| 各国語表記 | Lang|zh|康生 |
| 画像 | Kang Seng in Yan'an.jpg |
| 国略称 | CHN |
| 生年月日 | 1898年 |
| 出生地 | QIN1890山東省諸城県 |
| 没年月日 | 1975年12月16日 |
| 死没地 | 北京 |
| 出身校 | 上海大学 |
| 所属政党 | 中国共産党 |
| 配偶者 | 曹軼欧 |
| 名前 | 康生 |
| 繁体字 | 康生 |
| 簡体字 | 康生 |
| ピン音 | Kāng Shēng |
| 和名 | こう せい |
| 発音 | カン ション |
康生(こう せい')は中華人民共和国の政治家。元の名は張叔平、或いは張紹卿、趙容。山東省諸城(現在の山東省濰坊市諸城市)出身。文化大革命の重要人物の一人。
裕福な地主の家庭に生まれ、中国共産党副主席にまで出世した。ソ連滞在中にNKVDから「反革命分子」に対する拷問・処刑を学び帰国後、中国共産党情報機関の責任者となり毛沢東の片腕として強大な警察権力を行使して大量粛清にかかわった。「中国のジェルジンスキー或いはベリヤ」と呼ばれる。妻は曹軼欧。子供はいなかった。
経歴
8歳のときに張家が開設した学館(私塾)に入るが、1911年の「辛亥革命」でこの塾が閉鎖。その後は青島で青島礼賢中学へ入学した。1917年、同中学を卒業して郷里に戻ると、教師講習所に入学して、翌1918年から諸城高等小学校で教師となった。またこの年に江青と知り合った。
1919年におこった5.4運動で本格的に共産主義に近づいたといわれる。1924年に家を離れて上海へ赴き、中国共産党が主宰する上海大学社会科学系に入学した。1925年に正式に中国共産党に入党し、地下工作を行うので趙容と仮名を名乗った。その後、上海地区委員会書記として上海労働者を蜂起させる工作などに関与した。
1928年冬、共産党江蘇省委員会組織部長に就任した後、李立三(共産党中央政治局常務委員兼宣伝部長)の都市蜂起路線を支持して、その配下となる。1930年には李立三の推挙で中央組織部秘書長に昇進。李立三失脚後も、たくみに王明(陳紹禹)に接近して身の保全をはかった。1931年1月中国共産党六期四中全会で、王明総書記のもとで中央組織部長に就任し、周恩来、陳雲、潘漢年らの指導の下、中共中央特科()における情報工作の責任者となった。1933年、上海にあった党中央は組織が破壊され、江西省に移転するが、彼は残留し、共産党上海局代表として上海で地下工作に従事し続けた。
1933年7月、中国共産党中央コミンテルン駐在代表団団長となった王明に従って、副団長としてモスクワに入り、4年ほど滞在した。このときにロシア語名、中国語の音訳で康生と改名した。彼のソ連滞在中にスターリンによる大粛清の初期の粛清がはじまり、康生はソ連の秘密警察による容疑者への逮捕・拷問・処刑などを身近に体験したと言われる。また、自身も王明などの指示の下、中国共産党ソ連留学生をトロツキストとして攻撃し、彼等の迫害に関与した。また1934年1月の六期六中全会にはソ連滞在のために欠席したが、欠席のまま中共中央政治局委員に選出されている。
1937年11月に帰国した後に延安に移り、翌1938年には共産党中央社会部長、情報部長となり、以後党内の「スパイ」摘発工作で辣腕を振るう。1942年~1943年頃には毛沢東と劉少奇のもとで「整風運動」と称された粛清の実行にあたった。緊急措置をとり、拷問による自白を証拠として、多くの党員をスパイ、裏切り者、内通者として赤色テロを行った。
1946年~49年の国共内戦の間、康生は中国共産党中央華東局副書記、山東省委員会書記、山東省人民政府主席になった。山東省などを解放した。
1950年に統合失調症に罹患し、1955年まで北京病院で長期休養に入ったが、その後、1956年9月、中国共産党第八期一中全会で中央委員の中から中央政治局候補委員に選ばれて復権した。1958年中央文教小組副組長、教育工作委員会副主任に任ぜられ、『』第4巻の編集を受け持った。1959年に大躍進運動の失敗で国家主席退任を余儀なくされていた毛沢東は、左傾化を強め、1960年にオブザーバーとしてワルシャワ条約機構締結国政治協商会議に参加してフルシチョフの考えに反発した康生を強く信任するようになる。
1962年、王稼祥、習仲勲批判が起こった。9月、八中全会で中央書記処書記に補充される。1963年7月、ソ連共産党との最後の調整の会談のために派遣された中共代表団にも参加した(鄧小平が団長)。ここでも対ソ強硬派として徹底的にソ連共産党と論争した。また劉志丹を題材とした書籍を攻撃し、多くの人々を犠牲にし、文化大革命への道を開いた(反党小説劉志丹事件)。
1964年には楊献珍の哲学「二を合して一となる」を徹底的に攻撃するキャンペーンを策動して、文化大革命へ向けた理論武装を進めた。1966年5月、毛沢東による北京市長彭真への攻撃を狼煙として文化大革命が発動された。康生は中央文化革命小組顧問を任され、中央政治局常務委員になった。1968年中国共産党の情報機関である、中国共産党中央調査部()の指導権を獲得、実権派・右派分子・修正主義者の粛清の陣頭指揮に当たることとなった。死刑執行人として恐れられ、無数の冤罪をでっちあげ、多くの共産党員や幹部を迫害した。中には犠牲者1万人にも及ぶ内蒙古人民党事件(内人党事件())や雲南省委書記趙建民スパイ事件等も含まれる。
康生はまた、中国政府の外交方針に影響を与えた。中国共産党の指導者がシハヌークを反西洋、反帝国主義の指導者として育成する一方、康生はクメール・ルージュのリーダーであるポル・ポトを東南アジアにおける真の革命のリーダーとして支持した。結果として、ポル・ポトは中国の支援を受けることになった。
権力の頂点に立った時、康生の党内序列は毛沢東、林彪、周恩来の次の第4位であった。林彪失脚後、1973年8月の10全大会では副主席に就任した。癌にむしばまれはじめた1974年も林彪批判や孔子批判キャンペーンを繰りひろげて、周恩来、鄧小平への攻撃に最期の力をふりしぼった。
1975年1月の第四期全国人民代表大会では病気欠席のまま全国人民代表大会副委員長も兼務する。しかし12月16日に膀胱癌で死去した。康生が死んだ時の党内の序列は毛沢東、周恩来、王洪文の次の第4位であった。
追悼会では毛沢東より『プロレタリア革命家』『マルクス主義理論家』『反修正主義における輝ける戦士』と数々の賛辞を受けたが、毛沢東の死後、1980年10月16日に中国共産党は、康生をの一員として永久に除名した。
趣味
康生は文物、とりわけ、硯や本のコレクターであった。文化大革命時、略奪した34000冊に及ぶ図書と5500個に及ぶ文物をやり口を変え「保護」し、合わせて「康生」の個人印を押した。文革終了後、康生コレクションは北京の景山で公開、展覧されている。
参考文献
- 天児慧[2004]『中国の歴史 11巻 巨龍の胎動 毛沢東vs鄧小平』 講談社 ISBN 4-06-274061-3
- 高文謙[2003]『晩年周恩来』 (上村幸治 訳[2007]『周恩来秘録』 文藝春秋 上巻 ISBN 978-4-16-368750-6、下巻 ISBN 978-4-16-368760-5)
カテゴリ:共産主義者
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