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| 名 | 光武帝 |
| 代数 | 初 |
| 呼称 | 皇帝 |
| 画像 | 180px |
| 説明 | 光武帝肖像 |
| 王朝 | 後漢 |
| 在位期間 | 25年 - 57年 |
| 都城 | 洛陽 |
| 諱 | 劉秀 |
| 字 | 文叔 |
| 諡号 | 光武皇帝 |
| 廟号 | 世祖 |
| 没年 | 57年 |
| 父 | 南頓県令劉欽 |
| 母 | 樊嫻都 |
| 陵墓 | 原陵 |
| 年号 | 建武(25年 - 56年)建武中元(56年 - 57年) |
光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。
生涯
出生
劉秀は景帝の子で長沙王となった劉発の末裔である。幼少の頃は非常に慎重且つ物静かな性格とされていた。仕官するなら執金吾(官服が華美で、当時憧れる者が多かった)、妻を娶らば陰麗華(地元南陽で美人と評判の豪族の娘、後に皇后となる)という程度の希望を公言する、平凡な宗族の一人であった。
景帝─長沙定王劉発―舂陵節侯劉買┬舂陵戴侯劉熊渠┬舂陵考侯劉仁┬舂陵康侯劉敞―劉祉
│ │ ├劉慶―――――劉順
│ │ └劉憲―――――劉嘉
│ └蒼梧太守劉利┬劉張―――――劉玄(聖公,更始帝)
│ │ └劉騫
│ └劉□――――┬劉顕―劉信
│ └劉賜
└鬱林太守劉外――鉅鹿都尉劉回┬南頓県令劉欽┬劉縯(伯升)
└蕭県令劉良 ├劉仲
└劉秀(文叔,光武帝)
赤眉軍・緑林軍
王莽が禅譲により新朝を開くと、周代の政治を理想とし現実を無視した政策を実施したため民心は離れ、国内各地で叛乱が発生し、匈奴・西羌・高句麗等周辺諸国・諸族の反感を買った。
14年(天鳳元年)、山東の琅邪郡で呂母なる老女が県令に殺害された息子の仇を撃つために私財を投じて数千の徒党を集め、反乱を起こした。呂母は県令を殺害した後に死去するが、一旦集まった軍勢は法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散せず、18年(天鳳5年)、同郷の樊宗が兵を挙げると合流し一大勢力となった。この軍は敵味方の識別に眉を赤く塗ったので赤眉軍と称されている。王莽の朝廷軍である太師軍・更始軍は強引な兵糧徴収などで民心を失い、世間では「寧ろ逢うなら赤眉軍、太師軍には逢うな、太師ならまだしも更始軍であれば殺される」と囃される有り様であった。また同時期に王匡が貧民を集結し緑林山を拠点に叛乱を起こしている(緑林軍)。
22年(地皇3年)冬、劉秀の兄の劉縯(りゅうえん)が挙兵する。最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった劉秀が参加すると、劉秀の判断を信じ叛乱に参加する者が増えるようになった。この反乱軍は舂陵軍と称されている。
挙兵時には劉秀は貧しく馬を買うことができず牛に乗っており、緑林軍に合流してから朝廷軍より捕獲した馬に乗るようになったという逸話がある。
まもなく緑林軍は疫病が蔓延したために、南陽を拠点として新市軍と、南郡を拠点とする下江軍に分裂した。新市軍は南陽の豪族の平林軍(この軍には劉秀の本家筋に当たる劉玄が加わっていた)や劉縯の舂陵軍と連合した。後にこの連合軍が下江軍を再度吸収、劉が淯陽で官軍を打ち破った。連合軍が南陽宛城を包囲した後、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。劉擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。
23年(更始元年)夏、更始帝討伐を計画した王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、朝廷軍は63派の兵法家を同行させる、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。王莽軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。王莽軍は総大将が数千を率いて迎撃したが、劉秀やその部下の奮闘により王莽軍に大勝した(昆陽の戦い)。
昆陽の勝利に前後して劉も宛城を落城させている。これにより縯秀兄弟の名声は高まり、その名声を恐れた更始帝は両者への牽制を始める。劉玄即位に反対していた劉の部下が、更始帝により官位が授けられた際に固辞したため、更始帝はこれを反逆として誅殺しようとした。この時、劉は部下を擁護したため、更始帝はこれを口実として劉縯をも殺害した。この事件に際し劉秀は宛城に到着すると、更始帝に兄の非礼を謝罪し、また周囲が劉の弔問に訪問しても事件については一切語らず、自ら災禍に巻き込まれるのを防いでいる。
昆陽・宛県での結果を知ってそれまで傍観していた地方の豪族が次々と更始帝軍に合流し、更始帝軍は短期間で一大勢力と成長した。更始帝軍は洛陽と長安を陥落させ、更始帝は洛陽、長安へ遷都する。洛陽が都城とされていた時まで、劉秀は更始帝と側近達に昆陽での戦功と劉の弟であることから危険視され、中央から出ることが出来なかったが、河北へ派遣する適当な武将がおらず、大司徒劉賜が「諸家の子独り文叔有って用いる可し」と推挙したために赴任を命ぜられた。これによって劉秀への監視が解かれ、長安に遷都した更始帝の朝政が乱れ民心を失うことで、劉秀に自立の機会が与えられることとなった。
河北転戦
23年(更始元年)冬、劉秀は河北へと向かう。河北で劉秀が邯鄲を離れ北上した際、邯鄲で王郎が漢の成帝の落胤であると称し挙兵、劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。そのため劉秀は鄧禹、王覇、馮異ら僅かな部下を率いて河北を転戦することとなった。それは厳しい行軍となり極寒の中馮異が薪を集め鄧禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さと飢えをしのぐ状態であったと伝えられている。
その後は王郎を拒否し劉秀の庇護を求める信都郡の太守任光とその配下の李忠と萬脩、和正郡の太守邳彤らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植、耿純が陣営に加わる。これにより任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植、耿純は後世に雲台二十八将として名を連ねることとなった。
劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王の劉楊(『漢書』に拠る。『後漢書』は、「劉揚」に作る)への工作を開始し、劉楊の妹が豪族の郭昌に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊の姪の郭聖通(後の郭皇后)を劉秀が娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。
こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡と上谷郡が劉秀側につき、後世の雲台二十八将とされる呉漢、蓋延、王梁(以上漁陽)、景丹、寇恂、耿弇(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。これにより勢いを増した劉秀軍は王郎軍を撃破、24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死する。
劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀は河北の平定が完了していないとこれを拒否し、自立する道を選択した。その後は銅馬軍なる地方勢力軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越える勢力となった。
即位
25年(建武元年)、河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾し6月に即位、元号を建武とした。
この年、更始帝は西進してきた赤眉軍に降伏後殺害される。その赤眉軍も長安やその周囲を略奪し、食糧が尽きたことにより山東への帰還を図った。27年(建武3年)、光武帝(劉秀)の派遣した大司徒鄧禹・征西大将軍馮異は赤眉軍攻撃を行う。一旦は敗北した馮異は、その敗れた軍を立て直して赤眉軍を撃破、西への退路を絶ち、東の宜陽で待ち構えていた光武帝軍は戦うことなく、兵糧の尽きた赤眉軍を下して配下に入れた。
30年(建武6年)には山東を平定、33年(建武9年)には隴西を攻略し隗囂は病み且つ餓えて死し、継いだ子の隗純を降伏させ(34年建武10年)、36年(建武12年)に蜀の公孫述を滅ぼしここに中国統一を達成した。
統一後
光武帝は洛陽を最初に都城と定め、長安を陥落させた後も、荒廃した長安に遷都することなく洛陽をそのまま都城とした。前漢末以来の混乱で中国は大いに疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに激減していた。この対策として光武帝は奴隷解放及び大赦を数度にわたって実施、自由民を増加させることで農村の生産力向上と民心の獲得を図った。通常は農業生産に従事させ有事には兵となす屯田兵も多用し、生産と需要の均衡が崩壊したことによる飢饉や、辺境への食料輸送の問題を緩和した。また周辺諸国、特に匈奴に対しては懐柔策を取り、王の号を小国にも出し、戦乱を避け国力の回復を図る方針を採用した。
特筆すべき対外政策としては40年(建武16年)に交趾(ベトナム)で漢の支配に反抗した徴姉妹の反乱が起こるが、伏波将軍の馬援を派遣してこれを鎮圧している。また57年(建武中元2年)には倭奴国の使者に対し金印を授けている。これが江戸時代に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。
56年に建武中元と改元し、封禅の儀式を実施、天下に皇帝としての存在を強く印象付け、その翌年に崩御している。
評価
光武帝は中国史上で唯一、一度滅亡した王朝の復興を旗印としてこれに成功した君主である。彼の成功の背景は、一つには、王莽の新が漢を簒奪し、世の乱れは新・王莽の為であるとして、人民が旧主劉氏の漢を慕ったことである。つまり実際は別の王朝であるが、漢を継ぐという旗印が世に受け入れられたためである。もう一つには、光武帝その人の器量人徳を慕って多くの優秀な人材が集まったことが挙げられる。一方、同じ劉氏でも本家筋の更始帝は酒に溺れて見放されることとなった。
また光武帝と高祖の大きな違いは、第一に功臣を処断しなかったことが挙げられる。高祖は韓信など、漢の創業に貢献した武将を次々と処断していったため、統一後も暫く戦乱が続いたが、光武帝にはそのようなことがなかった。前述の奴隷解放令などと相俟って、当時としては珍しく道徳観念を失わなかった君主であるということが言える。
帝位に即いて後、光武帝が彼の育った地方を巡った時、宗族の叔母たちは酒が回って上機嫌で共に語って「文叔は若い頃、慎み深くて、人と打ちとけて付き合う事がなかった。ただ生真面目で柔和なだけだった。今やこのような皇帝である」と言った。光武帝はそれを聞いて笑って「我は天下を治めるも、また柔にて行わんと思う」と言ったという。
光武帝を随一の名君として評価した人物に、諸葛亮と司馬光がいる。
三国の蜀の宰相諸葛亮は、光武帝は神の如き知謀を持ち常に参謀と意見が一致したため家臣が地味に見えるが、その二十八将から下は馬援に到るまでみな張良や韓信に劣らないとした。光武帝は漢の高祖と違いミスをしないので家臣が目立たないのだという。
資治通鑑の著者司馬光は、光武帝が教化を重んじ学問と道義を大切にしたため200年後の曹操すら恐れて簒奪できなかったとし、神話時代というべき夏、殷、周の聖王に匹敵するとした。
政治方針
光武帝の政治方針は一貫して庶民の立場に立ったものであった。
度々の奴隷解放令だけでなく、売人法、略人法を公布し人身売買を厳しく規制した。建武11年には「天地之性、人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)」で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言した。豪族の跋扈する郡には、董宣、樊曄、李章といった酷吏と呼ばれる人物を太守に起用し、横暴な豪族を制圧した。そのため犯罪数が前漢時代の1/5に減少することになった。
税はそれまで収穫の1/10であったのを前漢と同じく1/30とし、役所を統廃合して冗官の削減を実現した。さらに地方常備軍である材官騎士を廃止するなど労働力の民間への転換を行っている。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、財政負担の軽減を図っている。
徹底した法家思想の政治方針で、太守を初め県令に至るまで自ら直接面接して任命した。またその施政に失策や不正があれば皇帝自ら杖刑を行うという法治政治を実施した。「礼は庶民に及ばず、刑は士人に及ばず」という儒家的な思想は一切なく、大臣たる三公で職務を全うできたものはごくわずかで獄死する者もいた。
光武帝の厳罰主義は、「以元元為首(庶民を最優先とする)」と称えられた反面、儒家である士大夫たちに不評であり、班固には「刑罰の根本が正しくない」と批判され、章帝の時代に宰相となった第五倫には秦の酷政、王莽の苛政に匹敵すると非難された。
人物像
体形や容姿については、身の丈七尺二寸(168cm)、当時としては標準身長で、王莽の納言将軍厳尤は降兵を尋問したおり、劉秀について「これ、須(あごひげ)と眉の美しき者なるか」と述べ、朱祜は宴席で「公には日角の相有り(額の上部が隆起して、太陽の如き角に見える)」と述べたのが記録に残っている。
性格は、温和・質素で農作業に熱心な姿は、兄の劉縯から劉邦の兄(=農民の劉喜)と見立てられたが、光武帝は極めて胆力のある人物でもあった。
庶民に落された舂陵康侯劉敞の田租のことで時の大司馬厳尤に堂々と陳情したり、兄劉縯の賓客の起こした事件に巻き込まれたこともある。姉湖陽長公主(黄)が、劉秀は無位無官の頃に逃亡者や死罪の者を匿ったことがある、と言ったことが記録されている。また、姉(元)婿の鄧晨と地方の官吏をからかって手配されたり、別件で新野で捕えられたりもしている。
銅馬軍数十万を降伏させたとき、不穏な空気の中を鎧もつけずに巡回したため、降伏兵から、「蕭王は真心を持って人を信じて疑わぬ、命をかけてお助けしようではないか(蕭王、赤心を推して人の腹中に置く いずくんぞ死に投ぜざるをえんや)」と声が上がった。
皇帝に即位後の建武年間の初期、刺客が首都に横行する時期においても、微行を好んで遠くまで外出し狩などで遊んで夜中に帰ったため、家臣の幾人かにしばしば諫められた。あまりに繰り返されたため、怒った家臣に門を閉ざされて閉め出しをくったことが少なくとも二度ある。
戦場では、多くの戦いで最前線に立ち、自ら得物を奮って戦う勇士であった。皇帝に即位後の鄧奉戦、劉永戦などでも、大軍を持ちながらなお最前線で騎兵を率いて戦う豪傑であった。
その反動か、統一後は、危急でなければ戦のことを口にせず、皇太子(後の明帝)が戦について尋ねても、「昔、衛の霊公が陣を問いても、孔子は答えず。これは汝に関係する話ではない」と結局、戦について語らなかった。
ただし戦場での豪傑的振る舞いと異なり、平時はよく笑う気さくな人物であった。ジョークを好み軽率な発言も多かった。そもそも挙兵以前に、兄劉縯と姉婿鄧晨と宛に行き、穣人の蔡少公と語りあった時、図讖を学んだ蔡少公が「劉秀当に天子と為るべし」と言った。ある人は「これは国帥公劉秀(光武帝とは別人=改名後の劉歆)のことか」と言ったところ、劉秀は戯れて「僕じゃないってどうしてわかるのさ(何を用って僕にあらざるを知らんや)」と発言し一同の爆笑を誘ったことがある。また中原平定後に、隴西の隗囂から外交の使者として来た馬援と面会した時、軽装で警護も付けずに現れた光武帝に馬援が「我が刺客であったらどうされます」と言うと、「そなたは刺す客ではなく説く客じゃ」などと洒落で返すなど、軽妙な発言には事欠かない。こうしたジョークの多くは周囲の家臣たちや、諧謔を喜ばずという性格の皇后陰麗華を困惑させたであろう。
光武帝は、自身が妙な言を多くすることもあり、言論に寛容であった。家臣はもちろん通りかがりの民間人にまで不遜な文句を言われたことがあるが、すべて笑って許している。周党や厳光のような処士・隠者が宮中に召されて礼に従わないときでも、その才・気骨を惜しんで罰するどころか恩賞を与えて厚く遇した。
宴会が好きで、統一後も二十八将たちを集めて大騒ぎしたが、本人は酒自体を好んでいない。
太学で尚書を学んだ学識人であり、詔などすべての文章が直筆である。第五倫は光武帝の詔を読むたびに「聖主である」と感嘆したという。
二十八将軍
『後漢書』列伝12に「中興の二十八将、前代には天界の二十八宿に対応したという考えもあるが、はっきりとは分からない」とある。元々は明帝が永平年間に、前代の名臣列将に感じて、洛陽にある南宮の雲台に二十八将の絵を描かせたのが由来である。故に雲台二十八将と呼ばれる(雲台には、その後4人が加えられて三十二将となる)。これは光武帝の即位時に、主君を盛り立てた建国の将臣中から二十八人を、親族外戚を除いて選んだものである。また、耿弇、耿純、劉植と親・兄弟・従兄弟で功臣を輩出しても代表一将で、一族が重ならないように選ばれているようである。
二十八将軍で、挙兵以前から面識があるのは鄧禹、朱祜の2人だけで、他の26人は運命であるかのように自らの地位や地盤を放棄して馳せ参じてきた。みな忠節を全うし、光武帝と対立したものはいなかった。戦場に散ったもの、病没したもの、統一後に文官に転身したもの、兵士を返上して進んで引退したもの、少ない常備軍を率いて将軍として働き続けたものなど、みな戦場で馬を並べて命を共にした戦友として、志を最後まで違えることはなかったのである。そのため星座の二十八宿にも擬せられ、正史たる『後漢書』にも二十八宿説が記載されることとなった。なお、この二十八将を論じた『後漢書』の文章は『文選』巻50・史論下に「後漢書二十八将伝論」として収められている。
名将馬援がここに入っていない。二十八将は建国の将軍なので入らないのは当然なのであるが、雲台の三十二将にも入らなかったのは、馬援の娘が明帝の皇后となったため避けたのである。
宗室
后妃
- 光武皇后郭聖通
- 光烈皇后陰麗華
子
- 東海恭王劉彊(母は郭皇后)長子
- 沛献王劉輔(母は郭皇后)次子
- 済南安王劉康(母は郭皇后)五子
- 阜陵質王劉延(母は郭皇后)七子
- 中山簡王劉焉(母は郭皇后)十子
- 楚王劉英(母は許美人)三子
- 明帝劉荘(母は陰皇后)四子
- 東平憲王劉蒼(母は陰皇后)六子
- 広陵思王劉荊(母は陰皇后)八子
- 臨淮懐公劉衡(母は陰皇后)九子
- 琅邪孝王劉京(母は陰皇后)十一子
女
- 舞陰公主 義王 太僕梁松(酒泉太守・宣徳将軍・九江太守梁統の子)に嫁す。
- 館陶公主 紅夫 駙馬都尉韓光に嫁す。
- 淯陽公主 礼劉 長楽少府郭潢(郭皇后の弟の大鴻臚郭況の子)に嫁す。
- 酈邑公主 綬 新陽侯世子陰豊(陰皇后の弟の少府陰就の子)に嫁す。
注釈
カテゴリ:漢の皇帝
カテゴリ:紀元前6年生
カテゴリ:57年没