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ベトナムの歴史(ベトナムのれきし、)では、ベトナムの多数民族であるキン人を中心としたベトナムの歴史について扱う。
中世以前の南ベトナムについてはチャンパ王国で詳しく扱う。


原始


旧石器時代
クアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)など多くの場所で打製石器剥片石器が発見されている。
新石器時代

古代




北属期


ただし、以下に掲げる諸勢力は、中国王朝から一定の独立性を保ったか、或いは中国王朝に反乱を起して一定期間勢力を保ち、ベトナムの古典籍上で王朝或いはそれに類する特別な地位を認められたもの。現代ベトナムの歴史教育においては、これらのうち幾つかを独立王朝として扱うものもある。
* 徴氏(チュン氏, Trưng) - (40年 - 42年
* 士氏(シ氏, ) - (187年 - 226年
* 前李朝(リー朝, ) - (544年 - 602年
* 曲氏(クック氏, Cục) - (906年 - 930年
* 楊氏(ズオン氏, Dương) - (931年 - 937年)
* 矯氏(キュウ氏, Kiểu) - (937年 - 938年)


独立王朝時代


十二使君時代 -(944年 - 966年)
ベトナムの史書は、この丁朝以降を連続した独立王朝時代として扱う。

李朝


1009年1225年詳細は李朝(リー朝, 李氏大越国, Nhà Lý)を参照

1009年、李公蘊によって李朝大越国が建てられ、ベトナムにおける長期的な統一政権が成立した。都はハノイに定められた。李朝は豪族の連合政権的な性格が強く、中国から諸制度の受容を図るが、中央集権的な統治体制を築き上げるまでには至らなかった。

陳朝


1225年1400年詳細は 陳朝(チャン朝, 陳氏大越国, Nhà Trần)を参照
1225年、陳氏によって李朝は滅ぼされ、陳朝大越国が成立した。13世紀後半にはモンゴルの侵攻を受けるが、陳興道らの活躍によって撃退した。陳朝の時代には、民族文字としてのチュノムが作られたほか、史書『大越史記』の編纂も行われた。

黎朝


1428年1527年詳細は 黎朝(レー朝, 黎氏大越国, Nhà Lê)を参照
ベトナムは一時明に服属していたが、黎利(黎太祖)によって独立が回復された。ベトナム南部にまで勢力を拡大して繁栄したが、のちに北部の鄭氏政権と南部の阮氏政権(広南王国)へと分裂した(南北朝時代)。
莫朝(マク朝, Nhà Mạc) - (1527年 - 17世紀
中興黎朝(中興レー朝, 後期黎朝, Nhà Lê) - (1532年 - 1786年
* 鄭氏政権(チン氏政権, 東京鄭氏, 北河, Trịnh, Đàng Ngoài) - (1600年 - 1786年
* 阮氏政権(グエン氏政権, 広南阮氏, 南河, Nguyễn, Đàng Trong) - (16世紀 - 1777年

西山朝


1786年1802年詳細は 西山朝(タイソン朝, 西山阮氏, 阮氏大越国, Nhà Tây Sơn)を参照

阮朝


1802年1945年詳細は 阮朝(グエン朝, 阮朝, 阮氏越南国, 阮氏大南, Nhà Nguyễn)を参照


フランス領インドシナ


1887年1945年詳細はフランス領インドシナを参照
ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年の癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)・1884年の甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。
1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、帝国日本に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。1917年ロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。

第二次世界大戦


1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、その翌年1940年から、フランス領インドシナ日本軍が進駐した(仏印進駐)。当時は、帝国日本ナチスドイツ同盟を結んでおり、日独両国はフランスと敵対していた。1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、帝国日本はその隙を衝いて仏印進駐を行ったのである。
仏印進駐後のベトナムは、フランスと帝国日本による二重支配に置かれた。帝国日本は「大東亜共栄圏」を主張したが、ベトナム帝国として形式的な独立を果たした日は、東京大空襲の翌日に当たる1945年3月11日であった。このベトナム帝国の成立は、阮朝王政復古を果たした日でもあった。ところが、1944年秋から1945年春にかけて、ベトナム一帯を凶作が襲い、この時に日本軍とフランス総督府が食糧を奪った為に、200万人に及ぶ人々が餓死した。
そして、8月14日に帝国日本が降伏を予告すると、1945年8月14日から15日にインドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで、全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立し、ホーチ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイ8月30日に退位を宣言した。そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を厳かに読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。


南北分断時代


1945年9月2日、帝国日本の降伏によって第二次世界大戦は終わり、直ちにホーチミンを首班とする政府を樹立して独立を宣言したが、ベトナムは冷戦による分断世界の巷に巻き込まれた。大日本帝国に勝利した連合国側は先ず中英が進駐し、続いてフランスが進駐し傀儡政権を樹立、再度ベトナムを植民地化し、これに対する第一次インドシナ戦争が始まった。フランスは次第に追いつめられ最終的にディエンビェンフーの闘いに破れて終結し1954年7月21日ジュネーヴ協定の調印で決着した。この協定の調印によって、北緯17度線を境に両軍の兵力分離を図り全国統一選挙を実施することになったが、フランスの後を継いだアメリカがジュネーブ協定には参加せず協定の統一選挙実施をサボタージして傀儡政権維持を図ったことでベトナムは完全に南北に分断された。
そして、1965年2月7日アメリカ軍による北爆によってベトナム戦争が始まった。ベトナム戦争の終わりは、1975年4月30日のサイゴン陥落によって、親米政権が倒された時であった。
尚、日本との和解は、ベトナム共和国(南ベトナム)が1959年ベトナム民主共和国(北ベトナム)が1973年であった。
南北分断時代
ベトナム国1949年 - 1955年)
ベトナム共和国1955年 - 1975年
南ベトナム共和国1968年 - 1976年)


ベトナム社会主義共和国


ベトナムの現代は、1976年7月2日に、ベトナム社会主義共和国が成立して、統一ベトナムが実現した事に始まる。
1993年2月にはフランスとの和解を果たした。そして、1995年7月28日には東南アジア諸国連合に加入し、その直後の8月5日にはアメリカ合衆国との和解を果たした。



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