TOPジョージ・W・ブッシュ

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現年齢63
生年月日1946年07月06日
人名 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ
各国語表記 Lang|en|George Walker Bush
画像 George-W-Bush.jpeg
画像サイズ 200px
国名 USA
代数 20px 第43
職名 大統領
就任日 2001年1月20日
退任日 2009年1月20日
副大統領 ディック・チェイニー
国名2 USA
代数2 20px 第46
職名2 テキサス州知事
就任日2 1995年1月17日
退任日2 2000年12月21日
生地 USA、
コネチカット州ニューヘイブン
配偶者 ローラ・ブッシュ
政党 共和党
サイン GeorgeWBush Signature.svg


ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(、1946年7月6日 - )は、アメリカ合衆国政治家。第43代アメリカ合衆国大統領。第46代テキサス州知事


概要


ブッシュは、最初に2000年の大統領選挙で当選し、2004年の大統領選挙で再選した。彼は1995年から2000年まで第46代テキサス州知事を務めた。また、第41代アメリカ合衆国国大統領ジョージ・H・W・ブッシュの長男である。身長は182.9cmと182.2cmの両説がある。
大学卒業後、彼の家族の石油会社で勤務した後、下院議員選挙に出馬したが落選した。その後、テキサス・レンジャーズを共同所有した後、テキサス知事選挙のために政治運動に戻った。彼はアン・リチャーズを破って、1994年のテキサス知事に当選した。ブッシュは接戦で論争の的になった大統領選挙において、一般投票では敗北したが選挙人投票で勝利し、共和党の候補として当選した。
大統領としてブッシュは、2001年に1兆3500億ドルの減税プログラムを
現年齢63
生年月日1946年07月06日
人名 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ
各国語表記 Lang|en|George Walker Bush
画像 George-W-Bush.jpeg
画像サイズ 200px
国名 USA
代数 20px 第43
職名 大統領
就任日 2001年1月20日
退任日 2009年1月20日
副大統領 ディック・チェイニー
国名2 USA
代数2 20px 第46
職名2 テキサス州知事
就任日2 1995年1月17日
退任日2 2000年12月21日
生地 USA、
コネチカット州ニューヘイブン
配偶者 ローラ・ブッシュ
政党 共和党
サイン GeorgeWBush Signature.svg
| url http://archives.cnn.com/2001/ALLPOLITICS/06/07/bush.taxes/
| title $1.35 trillion tax cut becomes law
| accessdate 2007-10-21


イラク戦争の中、ブッシュは自称「戦時大統領」として出馬し、2004年11月2日に再選された。ジョン・ケリー上院議員に対する彼の大統領選挙は、イラク戦争と国内問題のブッシュの遂行をめぐる論争にもかかわらず、好結果となった。再選後、ブッシュはますます激しい批判を受けた。彼の国内の支持率は、2001年同時多発テロ直後の90%(The Gallup Organizationによってこれまでに記録される最高のもの)から、記録に残る中で最も低いアメリカの現職大統領の支持率である、2008年2月20日現在の19%にまで低下した。ブッシュの不支持率は77%まで上昇し、国内ではブッシュ批判が激しさを増した。それは、2009年1月20日後継のバラク・オバマに政権を明け渡すその日まで続いた。

父親との呼称による区別


アメリカでは、父親のブッシュと区別するため、第43代大統領であることから「43(フォーティスリー)」や、ミドルネームを表す「W」、またはそこから派生して「Dubya(ダビャ)」と呼ばれることもある。また(歴史的には同姓同名で血縁関係のある人物を区別する際、年長者を「大(major)○○」、年少者を「小(minor)○○」と呼ぶので)父を「大ブッシュ」と呼ぶのに対して、息子の方を「小ブッシュ」と呼ぶこともある。「Bush Jr.(ブッシュジュニア)」の称もある。


来歴


若年期と軍歴


left
left
ブッシュは1946年7月6日コネチカット州ニューヘヴンで、ジョージ・H・W・ブッシュバーバラ・ブッシュの長男として生まれた。ブッシュは四人の兄弟、ジェブ、ニール、マーヴィンとドロシーと、テキサス州ミッドランドヒューストンで育てられた。もう一人の妹・ロビンは、1953年白血病によって3歳で死亡した。ブッシュの祖父・プレスコット・ブッシュコネチカット州選出の上院議員で、彼の父は1989年から1993年まで米国大統領を務めた。
ブッシュはマサチューセッツ州アンドーバーフィリップス・アカデミーに通った。そこで彼は野球をして、最終学年まで男子校のヘッド・チアリーダーだったSee also
現年齢63
生年月日1946年07月06日
人名 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ
各国語表記 Lang|en|George Walker Bush
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国名 USA
代数 20px 第43
職名 大統領
就任日 2001年1月20日
退任日 2009年1月20日
副大統領 ディック・チェイニー
国名2 USA
代数2 20px 第46
職名2 テキサス州知事
就任日2 1995年1月17日
退任日2 2000年12月21日
生地 USA、
コネチカット州ニューヘイブン
配偶者 ローラ・ブッシュ
政党 共和党
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| accessdate 2007-10-21
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title George W. Bush's Journey The Cheerleader: Earning A's in People Skills at Andover
author Nicholas D. Kristof
publisher The New York Times
date 2000-06-10
accessdate 2007-06-23


父の先例にならって、ブッシュはイェール大学に通い、1968年に歴史学士号を取得した。大学の専門課程に、ブッシュは秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーになった。
1968年5月に進行していたベトナム戦争のまっただ中に、ブッシュは適性検査の筆記試験で、下から25番目の成績だったにもかかわらず、合格の最低点だったので、テキサス空軍州兵に認められた。これは、一度に一万人以上の空軍州兵人員(多くの戦闘機パイロット)がベトナムの作戦を支援するために招集されていた時期だった。訓練の後、彼はヒューストンで任務を任せられ、エリントン空軍基地からコンベアF-102を飛ばした。批評家はブッシュが彼の父親の政治的な地位のために、軍務で有利に扱われ、正常な兵役ではなかったと主張した。合衆国国防総省は公式アーカイブに残っていたという、ブッシュのテキサス空軍州兵勤務記録を全てを公開した。1970年に、ブッシュはテキサス法科大学に出願したが、不合格にされた
現年齢63
生年月日1946年07月06日
人名 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ
各国語表記 Lang|en|George Walker Bush
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国名 USA
代数 20px 第43
職名 大統領
就任日 2001年1月20日
退任日 2009年1月20日
副大統領 ディック・チェイニー
国名2 USA
代数2 20px 第46
職名2 テキサス州知事
就任日2 1995年1月17日
退任日2 2000年12月21日
生地 USA、
コネチカット州ニューヘイブン
配偶者 ローラ・ブッシュ
政党 共和党
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title George W. Bush's Journey The Cheerleader: Earning A's in People Skills at Andover
author Nicholas D. Kristof
publisher The New York Times
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| url http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/choice2000/bush/cron.html
| publisher PBS - Frontline
| title Bush Chronology
| accessdate 2007-10-28


この時期に、ブッシュにはいくつかの薬物乱用と治安紊乱行為の報告があった。ブッシュはその時期に「あまりにも多く」飲んでいたことを認め、彼の人生のこの期間を「無責任な青春期」の「放浪」の期間だったと言った。1976年9月4日、ブッシュは30歳で、家族の夏の別荘付近で、飲酒運転容疑で逮捕された。彼は罪を認めて150$の罰金を科され、運転免許証1978年までメイン州で停止された。
ハーバード大学MBAを取得した後、ブッシュはテキサスの石油工業会社に入社した。1977年に、彼は友人に学校教師・司書のローラ・ウェルチ・ブッシュを紹介された。彼らは結婚して、テキサス州ミッドランドに居住した。ブッシュは妻の合同メソジスト教会に入会するために、米国聖公会を脱会し宗旨替えを行った。
1978年にブッシュはテキサス州の19下院議員選挙区から立候補した。ブッシュは、ブッシュが地元と接触していなかったと描写した相手ケント・ハンスに、6000票の差で負けた。
ブッシュは石油企業に戻り、アーバスト・エネルギー、スペクタン・7、ハーケン・エネルギーなどの会社の社長、最高責任者となった。これらの事業は、1980年代に産業と地域経済に影響を及ぼした、石油価格の広範囲な低下により損害を受けた。さらに、ハーケンが関係したかもしれないインサイダー取引の疑惑が起こったが、証券取引委員会(SEC)の調査は、ブッシュの株式販売より前に容疑を正当化するインサイダー情報はないと結論付けた。
1988年にブッシュは、ワシントンD.C.で家族と父の大統領選挙活動に取り組んだ。選挙運動の後、1989年4月にブッシュは、テキサス・レンジャーズの株を購入し、5年間無限責任組合員を勤めた。ブッシュは活発にチームの企画を指導して、定期的に試合に出席し、しばしばファンと売店に座ることを選んだ。1998年、ブッシュは最初に80万ドル投資したレンジャーズの株式を売却し、1500万ドルの利益を得た。

テキサス州知事


ブッシュは1994年のテキサス州知事選挙に出馬を表明したが、これは弟のジェブ・ブッシュのフロリダ州知事選出馬と同時である。共和党の予備選挙で大勝し、人気のあった現職のアン・リチャーズ(民主党)との一騎打ちとなる。
ブッシュにはKaren Hughes、John Allbaugh、カール・ローブといった選挙参謀がついた。ブッシュの選挙運動に対して、リチャーズへのアンフェアな中傷であるとする批判も上がった。しかし公開討論での効果的な弁舌により、ブッシュの人気は上昇した。結果、11月8日の選挙において、52%対47%の得票率で当選した。
知事としてブッシュは、首尾良く不法行為改革のための法律を支援し、教育資金の支出を増やして学校の教育水準を上げ、刑事制度改革を行った。ブッシュは152人の死刑を執行させたが、これはアメリカにおいて一人の州知事が執行させた死刑数としては最高記録である。ブッシュは20億ドルの歳入超過を減税に回したが、これはテキサス州における減税額の最高記録である。この減税により、ブッシュは企業活動を擁護する経済右派としての評価を確立した
ブッシュはまた教会などの宗教組織による教育、アルコール・薬物依存症対策、家庭内暴力対策活動への政府支出を行った。ブッシュは6月10日をテキサス州の「イエス(・キリスト)の日」と定め、この日には「支援を必要とする人々への奉仕をテキサス州民に要請する」とした。
1998年11月3日には69%の得票で再選を果たす。同年、共和党大統領候補予備選挙への出馬を表明する。大統領選挙当選に伴い、知事職は2期目途中で辞任(知事就任期間:1995年1月17日-2000年12月21日)。

大統領職


1期目

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大統領の第1期目は、ほとんどを対外戦争に費やした。アメリカ史上最も接戦となった選挙戦を勝利し、2001年1月20日に大統領に就任。民主党候補アルバート・ゴアが、一般投票でブッシュの得票を50万票ほど上回っていたが、選挙人投票でブッシュが5票多く得票した。実弟ジェブ・ブッシュが知事を務めるフロリダ州の、一般得票でゴアをわずかに上回り、25人の選挙人を獲得したためである。しかし、選挙終盤のフロリダ州における選挙の運営方法への問題点も指摘され(ブッシュ陣営がジェフ・ブッシュを通じて不正選挙を行ったと主張する意見もある)ゴア陣営が抗議したため、発足当初の国民支持率は低迷していた。
任期9か月目の9月11日ニューヨークワシントンD.C.同時多発テロが発生。彼は世界貿易センタービル跡地を見舞い、救助作業に当たる消防隊員や警察官らを激励してリーダーシップを発揮し、一時は歴代トップのケネディをも上回る驚異的な支持率を獲得した。
直後に報復攻撃の準備に取り掛かり、対テロ戦争と名づけたこの戦争は、概ね世界各国の同情と賛同を受け、10月7日アフガニスタン侵攻によって開始された。また国内では、テロ対策に不可欠だとして「パトリオット法」愛国者法)を制定する。しかし、炭疽菌小包による無差別殺人が一時横行し、同時テロとともに国内はパニック状態になった。一方、アフガニスタン作戦は順調に進み、12月7日にはタリバーン政権は壊滅、同月に新政権を樹立させた。
アメリカのアフガニスタン侵攻
2002年1月、一般教書演説において悪の枢軸発言。これはイラクイラン北朝鮮大量破壊兵器を開発保有するテロ国家と名指しで非難したものである。特にイラクに対しては武装解除問題を抱えていたので厳しい態度で臨み、国連の査察を4年ぶりに受け入れさせた。しかし武装解除が進まず、未だに大量破壊兵器を持ち続け、世界の脅威になっていると報告を受けたとし、それを世界に発信した。翌2003年に入ると、いよいよイラクに対し強硬姿勢を採るようになる。しかし、フランスドイツロシア中国などは根拠が足りないとして、イラクへの制裁攻撃に反対した。
3月17日にブッシュはサッダーム・フセインと側近に対して、48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。3月19日、最後通牒を無視したイラクに対し開戦(イラク戦争)した。作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、これについて特にイラク側との協定はなく、実際にはまだ戦時中であった。イラクはアメリカ・イギリス・ポーランドによる分割占領と、連合国暫定当局による統一した国家運営を行い、徐々に民主化することとした。
7月11日には、アメリカ国民のブッシュへの支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準である59%に急落したことが判明(ABCテレビとワシントン・ポスト紙の共同世論調査による)したが、これは後に回復し、その後再度低下している。12月にはフセインの逮捕に成功し、裁判の準備も行われ、占領政策も順調に行われているように見えたが、実際はアメリカ軍を狙った攻撃や自爆テロが絶えず、死者は湾岸戦争の1000名を上回ることとなった。また、イラクが隠し持っていると主張していた大量破壊兵器が見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になっていった。
2期目

2004年、ブッシュは再び大統領選挙に立候補したが、都市部のリベラル層がブッシュ支持から離反し、同時多発テロ発生後やイラク戦争開戦時の高支持率は維持できず、特に選挙戦の終盤は、対立候補の民主党上院議員のジョン・ケリーと支持率は拮抗しているとたびたび伝えられた。しかし、最終的にはブッシュが1988年の大統領選挙以来となる、過半数の51%を得票、選挙人もケリーを34人上回る286人を獲得し、2回目の当選を果たした。
2005年2月2日、第2期目における一般教書演説を行った。外政に関しては各国との協調路線を取ると述べた。イラクの国民議会選挙を評価し、イランの核開発問題に対して強硬な姿勢を打ち出し、さらに、中東各国の和平・民主化、シリアの正常化、核開発を進めていることを明言している北朝鮮の核廃棄問題などを取りあげ、世界を自由にするという決意を述べた。
8月29日ハリケーン・カトリーナによって過去最大級の犠牲者を出す災害となったが、政府の予防の不十分さと対応の遅れが非難された。本来、攻撃や災害から住民を守るべき州兵までイラクへ派兵されていることも大いに疑問視された。テロや戦争など有事には強いとされていたブッシュ政権が同様の危機管理である天災への対応には脆弱を見せたこと、過去に堤防の改築など被害を最小限に抑える対策が進言されていたにもかかわらず十分な災害予算を計上していなかったことが議会で民主党から批判の対象となった。また、彼の母親であるバーバラ・ピアスが被災地を訪れた時のインタビューで「被災地に住む人は貧困層ばかりで、避難所に入れた方が恵まれている」と発言し、批判はさらに高まった。実際、被災者への支援は白人系の富裕層に偏っており、逃げ遅れて被害に遭った貧困層の救援は後回しで、衛生状態が悪い中、放置された。
さらに10月には、イラク戦争開始前にイラクの大量破壊兵器購入に懐疑的な見解を述べた、元駐ガボン大使ジョセフ・ウィルソンの妻バレリー・プレイムCIAの工作員であると意図的に情報漏洩し、元大使の信頼性を落とそうと画策した事件に関し、チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーが、事件の主導人物の隠蔽目的の偽証罪に問われ米連邦大陪審に起訴される(プレイム事件)。その後リビーは一審有罪判決を受け、さらに副大統領も情報漏洩の主導的関与を行った疑いが持たれた。
この影響で、11月にニューズウィーク誌が実施した世論調査によれば、支持率は36%にまで低下。他の世論調査でも支持率が低下しており、ブッシュ政権は2期目の最初の1年目から試練に直面した。年末、ブッシュはイラク開戦の重要な根拠となった大量破壊兵器の報告に誤りがあったと発表した。開戦以前からイラクの武装解除は順調に行われていたことがすでに明らかになっていたが、これを追認する形となった。しかしながら、フセインの圧政からイラク人を解放したことを強調し、戦争の正当性を改めて訴えた。
2006年11月8日に行われた中間選挙ではイラク戦争に対する有権者の批判や同性愛のスキャンダルに加えて宗教保守派が大幅に離反したことなどから、与党共和党は民主党に大敗し連邦議会上下両院の多数派の座を奪われた。このため、ブッシュはイラク政策の責任者であったラムズフェルドが国防長官を辞任(事実上の更迭)。後任にロバート・ゲーツ(元CIA長官)を指名した。
その後も、相次ぐ閣僚の不祥事や原油高による経済への不満などもあり支持率は低迷。2007年5月には支持率が最低の28%となったこともあって、報道官などのスタッフを入れ替えて人事の刷新を図った。
2007年3月には“老朽化した核弾頭の更新”を名目に、冷戦終結後初めての新型核弾頭設計に着手する事を表明。2012年を目途にSLBMへの配備を目指すとした。
2007年6月28日、事実上政権の“遺産”となると思われた共和党提出の『不法移民の在留資格獲得に道を開く移民制度改革法案』が米上院における採決で否決された。法案は、アメリカ・メキシコ国境の警備を強化する一方で、すでに入国した不法移民に罰金支払いや身元審査を条件に就労の合法化や永住権取得に道を開く包括的な改革であったが、共和党反対派が大々的なキャンペーンを行い、推進派からも内容の一部をめぐり反対の意見が出た。ブッシュは賛成を求めて電話で最後の説得にあたったが、「支持率が記録的に落ち込んだ彼の懇願は実を結ばなかった」(米紙ワシントン・ポスト)という。
2008年2月18日には共和党の次期大統領候補に選出されたジョン・マケインの支持を公式に打ち出し、大統領選挙の事前投票でマケインに投票した。しかしブッシュの人気が余りにも低いために、ブッシュの正統な後継者を自任し多くの政策に賛同してきたマケインに「私はブッシュ大統領ではない」と言われ、応援演説の依頼も殆ど無かった。結果的に、ブッシュ政権との相違が見出せなかったマケインは民主党候補のバラク・オバマに6.3%差で敗れた。
サブプライムローンに端を発した金融危機への対応策である「金融安定化法案」の採決では9月29日下院における共和党右派の反対もあって法案は否決されたが、修正法案が上院で可決された後10月3日に下院で可決され成立した。
2008年11月のCNNによる世論調査ではブッシュの不支持率が76%に上り、ウォーターゲート事件で辞任したリチャード・ニクソンをも上回る戦後最悪の不支持率を記録した。
2008年12月14日、退任末期のブッシュはイラク首相ヌーリ・マリキとの共同会見中、取材していたイラク人記者ムンタゼル・ザイディ()から履いていた左右の靴を投げつけた。ブッシュは身をすくめてかわし、直後にザイディは取り押さえられた。同日の夜、イラクのニュース番組でこの映像が流れると、エジプトの民間衛星テレビ局の女性アナウンサーがこの記者を「英雄」と呼び、また数千人の市民が犯人の釈放を求めデモを起こした。
2009年1月14日、ブッシュは「米国の真の友人であり、歴史的な挑戦に対して不屈の精神で対処した」としてトニー・ブレア(イギリス元首相)、ジョン・ハワード(オーストラリア元首相)、アルバロ・ウリベ(コロンビア大統領)の3人に大統領自由勲章を授与した。なお、小泉純一郎ら日本の政治家は選から漏れた。
2009年1月20日正午(ワシントンD.C.時間)、任期満了で大統領を退任。

大統領退任後


大統領退任後は、テキサス州ダラスの自宅やクロフォードの牧場に居住し、大統領図書館シンクタンクの活動に従事している。ブッシュは1994年までダラスに居住していた縁があり、地元ではブッシュを歓迎するムードが広がっている。ダラスのホームセンターでは「ブッシュ前大統領殿 ようこそお戻りになりました!」との書き出しで始まる「お客様係募集」求人広告をジョークで掲載し、「時間に融通の利く、非常勤。ご自宅からも近距離で、一日体験も可能です」とメリットを列挙したうえで「何年にも亘る外国要人との会談を通して、社交術を磨き上げてきたあなたが、このポジションの優れた候補者だと確信しています」と呼びかけた。なお、広告掲載後、当該の店にはブッシュ本人が「仕事を探しているんだ」と突然来店し、店長に対して入社を丁重に辞退したうえで買い物をするというジョークで応じたため、居合わせた客らから喝采を浴びた
なお、支持率ワースト1位である彼の伝記の『ブッシュ』が公開される(米国ではブッシュが退任直前の2008年に公開された)。監督のオリバー・ストーンは、映画を作る目的は「あくまでブッシュの品格を落としたり、傷つけようとしているのではない」としており、「彼の言葉を喋らせること、イラク戦争に対する彼の判断は、彼という人物やその個人史と相関関係にある。それを示そうとした。」とコメントしている。


政権


政権スタッフ


職名 氏名 任期
大統領 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ 2001 - 2009
副大統領 ディック・チェイニー 2001 - 2009
大統領顧問団
国務長官 コリン・パウエル 2001 - 2005
コンドリーザ・ライス 2005 - 2009
国防長官 ドナルド・ラムズフェルド 2001 - 2006
ロバート・ゲーツ 2006 -(次政権に留任)
財務長官 ポール・オニール 2001 - 2003
ジョン・スノー 2003 - 2006
ヘンリー・ポールソン 2006 - 2009
司法長官 ジョン・アシュクロフト 2001 - 2005
アルバート・ゴンザレス 2005 - 2007
マイケル・ミュケイジー 2007 - 2009
内務長官 ゲイル・A・ノートン 2001 - 2006
ダーク・A・ケンプスロン 2006 - 2009
農務長官 アン・ヴェネマン 2001 - 2005
マイク・ジョハンズ 2005 - 2007
チャールズ・F・コナー 2007 - 2008(代理)
エドワード・トマス・シェーファー 2008 - 2009
商務長官 ドナルド・L・エヴァンズ 2001 - 2005
カルロス・M・グティエレス 2005 - 2009
労働長官 イレーン・チャオ 2001 - 2009
保健福祉長官 トミー・ジョージ・トンプソン 2001 - 2005
マイケル・オーカーランド・レヴィット 2005 - 2009
住宅都市開発長官 メル・R・マルチネス 2001 - 2003
アルフォンソ・R・ジャクソン 2004 - 2008
スティーヴン・クライド・プレストン 2008 - 2009
運輸長官 ノーマン・ミネタ 2001 - 2006
マリア・シノ 2006 (代理)
メアリー・ピーターズ 2006 - 2009
エネルギー長官 E・スペンサー・エイブラハム 2001 - 2005
サミュエル・W・ボドマン 2005 - 2009
教育長官 ロデリック・レイナー・ペイジ 2001 - 2005
マーガレット・スペリングス 2005 - 2009
退役軍人長官 アンソニー・J・プリンシピ 2001 - 2005
R・ジェームズ・ニコルソン 2005 - 2007
ゴードン・H・マンスフィールド 2007 (代理)
ジェームズ・B・ピーク 2007 - 2009
国土安全保障長官 トム・J・リッジ 2003 - 2005
ジェームズ・M・ロイ 2005 (代理)
マイケル・チャートフ 2005 - 2009
ブッシュ政権は、ネオコンと称される閣僚が占める要職も多く、またキリスト教右派を支持母体にしているため対外的に武力行使も辞さない民主化、中東の石油をめぐる利権追求、アメリカの覇権の追求(単独行動主義、覇権主義)などが外交政策に現れている。

政策


経済政策上は減税、企業活動重視、自由貿易グローバル資本主義)推進、福祉削減など新保守主義に始まる新自由主義的政策、「小さな政府」の方針と重なるところも多い。しかしながら、クリントン政権が大きな財政黒字だったのに対し、ブッシュ政権は2つの大きな戦争に参加するなどして膨大な軍事支出を生じさせたため、実際の財政支出はかなり大きくなり、2004年には史上最大の4130億ドルもの財政赤字に苦しんでいる。ブッシュ自身は、かかる自らの政策を「思いやりのある保守主義」(Compassionate Conservatism)と称している。
外交面では政権内のネオコンと呼ばれる人々によって特徴付けられ、武力によって他国に介入し、民主化するというタカ派戦略を採り、イラク戦争アフガン戦争を引き起こした。
ブッシュを支持する共和党支持者の中には、キリスト教福音派の原理主義者が多く含まれ、ブッシュは彼らの道徳や倫理観に配慮した政策を打ち出す傾向があるという意見もある。旧知のハリエット・マイヤーズをアメリカ最高裁判所の判事に指名した際、マイヤーズが弁護士時代に中絶に関する質問に対して曖昧な答えを残していたことなどから反発を受け、断念せざるを得なくなるという事例もあった。
他に話題を呼んだ政策として、次のようなものが挙げられる。
  • 「州児童医療保険事業(SCHIP)」延長法案への反対
なお、ブッシュの下で副大統領を務めているディック・チェイニーは、父の大ブッシュの下で副大統領を務めたダン・クエールより年長である。
地球温暖化

ブッシュ政権は地球温暖化問題への取り組み(温室効果ガスの排出削減対策)に消極的だと言われる。科学誌ネイチャーによると、ハリケーン被害が増大している一因は温暖化であるとする内容の報告書を米国海洋大気局が発表しようとした際、ブッシュ政権からの圧力によって阻止されてしまったという。
また2005年には、京都議定書を離脱している。


外交政策


イラク戦争
ブッシュ政権は、イラクが国際原子力機関 (IAEA) の査察に全面的に協力しないこと、生物兵器化学兵器も含め大量破壊兵器を隠し持っていることなどを強く主張し続けた(イラク武装解除問題)。先制攻撃も辞さないこと、軍事行動を肯定する国連安全保障理事会による決議は「望ましいけれども必要ではない」ことなどを主張し、2003年3月17日(アメリカ現地時間)国際法に則り「48時間以内にサッダーム・フセインとその息子がイラクを去らなければ軍事行動を行う」という最後通告を行った。
しかし、開戦の根拠とされた大量破壊兵器はその後発見されずイラク戦争の正当性が根底から揺らぐ事態に発展している。ブッシュ政権はその後、開戦の理由を「イラクのフセイン政権がアルカイダを始めテロリストを支援している」と説明し、「同時多発テロの実行犯モハメド・アタとイラクの諜報部員が接触していた」と主張したが、独立調査委員会は「会合の存在自体が無かった」とする見解を示している。
英歴史家のポール・ケネディは読売新聞紙上に載せたコラムで、第二次世界大戦の二人の指導者、フランクリン・ルーズベルトが小児マヒでありながら国外の戦略会議に3回出席したことやポツダム宣言で果たした役割、さらにウィンストン・チャーチルが主要な戦場に何回も足を運んだことを指摘し、一方のブッシュが開戦から5年の間にイラクに訪問したのはいずれも数時間足らずで合計するとイラクに居たのは一日にも満たないと両者を対比しながら述べている。またブッシュはイラクの復興支援17ドル減額したもののイラク復興のための186億ドル(約2兆460億円)の予算案を可決した。
日本
首相小泉純一郎の在任中には個人的な繋がりをアピールし、「ジョージ」、「純一郎」と呼び合うほどの仲であった。2006年6月に小泉が訪米した際には、ワシントンD.C.から、小泉がファンであるエルヴィス・プレスリーの自宅兼博物館のあるメンフィスまでエアフォースワンで同乗し、プレスリーの自宅を自分の妻とプレスリーの元妻とその娘との4人で案内するなどした。
その一方で、在日米軍基地再編米国産牛肉の輸入問題などで日米両政府の見解が一致しない政策もある。また、政権末期には北朝鮮に対して宥和政策に転じるなど、拉致問題で対北朝鮮強硬姿勢を取る日本との歩調のズレが目立った。
2007年8月、アメリカ中西部ミズーリ州のカンザスシティで行った演説において、第二次世界大戦前の日本について「民主主義は日本では決して機能せず、日本人もそう思っているといわれてきたし、実際に多くの日本人も同じことを信じていました。民主主義は機能しないと」、「日本の国教である『神道』があまりに狂信的で、天皇に根ざしていることから、民主主義は日本では成功し得ないという批判もあった」と述べている。
2009年1月14日、退任直前にブッシュは盟友としてトニー・ブレアらに大統領自由勲章を授与したが、日本の政治家には贈られていない。
中国
政権初期は、「中華人民共和国の経済成長はアメリカの国益に対する戦略的脅威」とみなし、2001年4月に東シナ海でおきたアメリカ海軍偵察機と中国人民解放軍機との接触事故では、「アメリカ側に責任は無い」とするなど強硬な態度であったが、後に経済的な理由から接近した。なお中国公式訪問は全任期中4回なのに対し、日本公式訪問は1回である。このことからも、対中関係を重視していたことが明らかである。
ブッシュ政権下で米国の対中貿易赤字は増え続けた。また、中国は日本に次いで多くの米国債を購入している。
なお、同時多発テロ以降の外交方針の転換により中国当局により弾圧を受けている東トルキスタン独立運動などを「テロリスト」と認定した。
中国とは貿易関係では密接なのに対して人権問題では対立しており、ブッシュは中国からの独立を求めるラビア・カーディルと会談し、ダライ・ラマ14世をホワイトハウスに招くなど、中国政府から批判されながらも彼ら友好を強化していた。李明博大統領と中国と北朝鮮の人権侵害を批判していたが、結局は関係の悪化を恐れて北京オリンピックの開会式には参加していた。
韓国
2001年の米韓首脳会談では当時の金大中大統領を「この人」と呼び、韓国人の間で話題となった。2002年在韓米軍による議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件では、電話を通じて韓国政府に謝罪するが反米感情の高まりを抑えることはできなかった。後継の盧武鉉政権とは、反米色が強かったため次第に関係は悪化した(ただし、イラク戦争に際して韓国は軍を派遣している)。2008年李明博政権以降は、対立関係も解消した。
北朝鮮
ブッシュ自身は北朝鮮問題に関心も知識も乏しく、2000年6月の大統領候補時代に友人であるサウジアラビアのバンダル王子と会談したさい、「なぜ自分が北朝鮮のことを心配しなければならないのか?」とこぼして、王子に「北朝鮮の国境付近には3万8,000人のアメリカ兵が駐留しているため、北朝鮮が国境を越えて侵攻すればおそらく1万5000人が戦死して、合衆国は途端に戦争へ突入するからです」と諭されている。それでもクリントン政権の宥和策に反対してきた共和党の姿勢に沿って、政権初期は「悪の枢軸」として批判を行うなど強硬姿勢を取っている。日本人拉致問題についても、2006年に渡米した横田夫妻ら被害者家族との面会時に断固たる姿勢で望む事を表明していた。
しかし政権末期には、北朝鮮の核実験実施や他の外交政策の不振から、対話を軸として核兵器問題の解決を目指す宥和政策に転じ、「核施設の無能力化を進めれば、拉致問題の進展とは関係なく、テロ支援国家指定を解除する」との立場を北朝鮮に伝えていたことが明らかになっている。2008年6月26日には、北朝鮮の核開発計画申告を受けて指定解除の手続きを開始する事を発表、拉致問題については引き続き解決への協力姿勢を表明しているものの、被害者家族からは先の面会時からの豹変振りに「裏切られた」と失望の声が挙がっていた。
だが、土壇場の8月11日、「しっかりとした(核施設の)検証体制を示さない」ことを理由に北朝鮮のテロ支援国家指定解除の発令に対する署名を拒否した。そもそも6月26日の指定解除手続きに関する発表では、同時に北朝鮮および北朝鮮の国民に関する確定的な(移動)制限を継続することについての大統領令(Executive Order: Continuing Certain Restrictions with Respect to North Korea and North Korean Nationals)も発表しており、この時点で北朝鮮による手続きが履行されても不履行であっても、対北朝鮮制裁を解除する意志がなかったことが、この大統領令の存在から明らかになっている。
ロシア
ロシアのプーチン政権とはチェチェン問題もあり、当初は距離を取っていたが、911テロを契機にして協調関係に移行。2005年のロシアの戦勝記念日の軍事パレードに出席するなど、積極的に「テロとの戦い」を進めていくことを確認した。しかし、イラク戦争ではフセイン政権と親交があったロシアとの利害対立が目立った。また、南オセチア紛争ではメドヴェージェフ政権から「紛争の発端はアメリカ大統領選挙で共和党を有利にするためのネオコンの陰謀である」と批判された(これはブッシュが北京オリンピックの式典に参加するため国内を空席にしたため、政権内部のネオコンをコントロールできていたかその能力を疑われたからでもある)。
ベトナム
かつての敵国だったベトナム訪問した。枯葉剤問題ではアメリカ政府は枯葉剤除去に資金を出したが賠償はせず、アメリカ政府は贖罪として2007年以降ベトナムの経済成長への大規模な支援や投資、そして地雷除去資金の提供というさまざまな援助をする姿勢は見せている。そのためかかつての敵に対するベトナム人の友好的態度にブッシュは驚いたようである。2008年には「米国大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)」をベトナムで展開するための事務所を開設したと発表した。
フィリピン
2008年フィリピンに対し食料価格高騰や台風6号の被害に苦しむ同国民を助けるため、米海軍の原子力空母ロナルド・レーガンを被災地に派遣し、食料支援を行った。ブッシュ大統領は会談後、台風の犠牲者らに弔意を表明。アロヨ大統領がモロ・イスラム解放戦線(MILF)やイスラム原理主義過激派アブサヤフなどの反政府勢力に対し、対話と圧力による硬軟両様のテロ対策を進め、効果を上げていると評価した。またフィリピンはイラク戦争に仏独中露が反対する中で数少なく支持した国である。
中南米
アフガン侵攻やイラク戦争以来、ベネズエラ大統領のウゴ・チャベスとの険悪な関係で知られており、2002年にはアメリカ政府の関与が指摘されるクーデターがおきている。国連総会でチャベスはブッシュを『悪魔』と呼び、『ブッシュは大量殺人犯 残る一生を牢獄で過ごすべきだ』などと激しく非難されている。ブッシュはボリビアエボ・モラレスの麻薬の利用を非難したが、逆に「テロリストはブッシュだ」と反論され、モラレスも一歩も退かない。キューバではアフガン侵攻やイラク戦争以来、『ブッシュはヒトラーに並ぶ殺人犯』という皮肉ったプロパガンダが掲げられていた時期があった。
チベット
ダライ・ラマ14世とはホワイトハウスに招待するほど親密であり、彼が米国議会から議会名誉黄金勲章を授与された時にブッシュも授章式に同席した。米国議会からのダライ・ラマ14世への黄金勲章授与に対して、米中関係に悪影響を及ぼすとして中国政府は強く反発した。ダライラマは、いくつかの政策は「大失敗」だったが、一個人としては好きだと語った。チャベスが親中派で中国を全く批判しないのに対し、ブッシュは中国から反発を受けながらもダライラマと友好を深めていた。
アフガニスタン
アフガニスタンではタリバン政権が崩壊し、親米政権が樹立した。さらに各国からの200億ドルの支援が施されている。アフガン人はソ連のアフガニスタン侵攻で未だにロシアを激しく嫌っており、アメリカに対してはタリバンからの解放軍のように歓迎して親米政権も樹立していると宣伝されてきたが、実際には、2008年段階でアフガニスタンは事実上タリバンに奪回され、親米カルザイ政権は首都近付近に勢力を持つのみの存在となっている。
イスラム社会
ブッシュはアフガニスタン侵攻からイラク戦争までイスラム社会から憎悪の対象となっており、その度にイスラム社会のマクドナルドケンタッキーフライドチキンの店舗などに破壊や放火があり、南米訪問や大統領退任後のカナダ訪問でも現地民から抗議行動を受けており、大統領辞任後もパキスタンでは反戦抗議があった。しかしアメリカはイラクでも莫大な復興支援を提供し、イスラエル・パレスチナの和平プロセスを進めており、パレスチナに多額の復興支援をしている。
アフリカ
アフリカ諸国に対する支援に極めて熱心であり、教育医療活動への支援とともに、紛争内戦の終結を目指し積極的な仲介工作を展開したブッシュ政権はアフリカ諸国への二国間支援を特に重視しており、その年間支出はクリントン政権時の4倍に達した。ブッシュの積極的な支援活動に対しては、アフリカ諸国からも評価する声が強い。大統領退任前後には、ブッシュの功績を称える市民らが新生児に「ジョージ・ブッシュ」と命名する社会現象が発生し、アフリカ大陸北部地域を中心に流行した


人物


知性


名門イエール大学を卒業し、ハーバード・ビジネススクールで経営学修士を取得した「高学歴」とされるが、後に本人が母校での演説で「成績がCでも大統領になれる」とジョークのネタにしたように学生時代の成績は決してよくはなかった。
ニューヨーク市立大学教授で、ハーバード時代のブッシュに授業を教えたことのある霍見芳浩は、大統領就任が決まった直後のマスコミの取材で当時のブッシュの印象を聞かれて「典型的な金持ちのお坊ちゃま。怠惰で授業態度も悪く、大統領はおろかどんな組織のリーダーも務まる人物ではないと思った」と答えている。
大統領候補時代に、記者から「パキスタンの大統領の名前は?」と質問され答えられないなど、就任前から大統領としてふさわしい知性の持ち主か否か、危ぶむ声があった(ブッシュが同じような質問を記者にすると「私は記者だが、あなたは大統領候補だ」と返された)。大統領就任後も、2001年11月のブラジル大統領フェルナンド・エンリケ・カルドーゾとの首脳会談上の席上、「あなたの国にも黒人はいるのか?」と尋ねて、その場でライス安全保障問題担当補佐官に訂正されるエピソードがあるなど、知性を疑われるような発言を何度も繰り返した。これらの迷言癖は俗に「ブッシズム」と呼ばれる。
また、他の歴代大統領と比較して著しくボキャブラリーが貧困であるとされた。耳慣れない人名や地名をよく間違って発音することでも有名で、アブグレイブ刑務所の囚人虐待事件に関する演説では「アブグレイブ」の発音を一度もまともに言えなかった。2007年9月オーストラリアシドニーで行われたAPECの演説では、OPECと言い間違えた上にこの演説で三回もの言い間違いをし、参加者から失笑をかった。言い間違いを防ぐため、演説原稿に出てくる各国首脳の名前や国名、首都名に読みがながふられていたことも発覚している。
第1回目の大統領選挙の公開討論の席で、アル・ゴアがブッシュを小馬鹿にするような態度を示したが、それに対し誠実な対応を行ったことが有権者の好意的評価に結びついたとされる。
2002年1月テレビでフットボール観戦中、また2003年3月テレビ演説でイラクのフセイン大統領に最後通告を行った後に、菓子のプレッツェルをのどに詰まらせて気絶し、マスコミに大きく報じられたことがある。

人物像


ブッシュ自身は側近の意見に耳を傾けていると言われ、特に外交に関しては穏健派のパウエル国務長官と強硬派のライス補佐官に議論をさせ、ライスの意見を支持しイラク戦争に向かったとされる。ライス補佐官は第2期政権において国務長官に起用された。ブッシュの意を受けたライスは国防総省を牽制しつつ、外交に重きを置きながらイラクの武力支配を正当化しようという戦略をとっている。
また戦争中に、ラムズフェルドが戦死した兵士の家族への手紙の署名にオート・ライターを使用したのとは対照的に、ブッシュは直筆の手紙を出し続けている。また、人権問題に関心が深いこともあり、北朝鮮による日本人拉致問題に深い興味と理解を示し、拉致被害者の家族が訪米した際には、ホワイトハウスで面会した。
AP通信社がアメリカ国民を対象に行った世論調査では、2006年の「憎まれ役」「英雄」でそれぞれ1位に選ばれた。ちなみに「憎まれ役」は2位以下、オサマ・ビンラディンサダム・フセインマフムード・アフマディーネジャード金正日。「英雄」は2位以下、イラク駐留アメリカ軍、バラク・オバマ。また、ジョン・F・ケネディ以降の歴代大統領を、ホワイトハウスで取材してきたジャーナリスト、ヘレン・トーマスは、彼を「今までで最悪の大統領。アメリカ史上最悪の大統領 (This is the worst President ever. He is the worst President in all of American history. )」と酷評している。また2004年ブッシュが再選されとき、ブッシュに批判的なアメリカ人はカナダに移住したそうである。
一方でライス国務長官は政権末期の米CBSテレビとのインタビューで、ブッシュが直面してきた状況について「第二次世界大戦後で最も厳しい時期だったのではないか」との見方を示し、そのなかでブッシュが下してきた決断は「時を経て記憶にとどまるだろう」とし、イラクのフセイン政権打倒や中国インドブラジルなどとの良好な関係を例に挙げ、「歴史がブッシュ政権に良い評価を下すだろう」と述べた。

宗教


前述のように無軌道な時代もあったものの、1985年ビリー・グラハム牧師と出会って以降、その当時患っていたアルコール依存症ローラ夫人の支えもあって克服し、現在では敬虔なクリスチャンとして知られており、宗派はメソジストである。

愛読書


読書家としての側面も知られており、専用機での時間や週末の多くを読書に費やすという。ジャーナリストのエリザベス・ビュミラーの取材によると、愛読書として聖書のほか、建国者ワシントンハミルトンの評伝があげられた。この他トム・ウルフの小説の熱烈なファンで、イスラエルの作家ナタン・シャランスキーの本を盛んに周囲に勧めていたことが伝えられている。

ペット


動物愛好家として知られており、愛のバーニーをはじめ、トカゲなど複数のペットを飼育している。また、昆虫収集に熱心である。特にホワイトハウス内で同居している愛のバーニーは、テレビで一緒の姿を映されることも多いためアメリカ国内ではつとに有名である。

スポーツ


大の野球ファンとして有名で、1989年からはテキサス・レンジャーズの共同オーナーも務めていた。当時のテキサス・レンジャーズ監督は2005年11月15日に伊丹空港でジョージ・W・ブッシュを出迎えたボビー・バレンタイン。大統領時代も度々メジャーリーグの始球式を行っている。2002年に選手会のストライキが濃厚になった時にはストライキの中止を求めるコメントを出した。その結果、ストライキは直前で中止された。
大学時代にはラグビーをプレーしていた。大学に入る前は野球をメインにプレーしていたが、あまり上手くなかったため、大学に入るとアメリカではマイナースポーツであり、レギュラーをとりやすいラグビーに転向した。しかし、ラグビーでもあまり良い成績を収めることはできなかった。


関連項目


  • ブッシュ (映画)


外部リンク


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